まへん。音を立てるちふのは、その人の将棋がまだ本物になつてん証拠だす。ほんたうの将棋いふもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切つてしもて、自分いふもんが魂の脱け殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言ふ風になつてしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残つてる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘蛛《くも》の糸よりまだ細い糸が出まつしやろ。その細い糸の上に人間が立つてるちふやうな将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸ひこまれてしまふちふと、細い糸の上にも立てます――さういふ将棋でないとほんたうの将棋とは言へまへん。さういふ将棋になりますちふと、もう打つ駒に音が出て来る筈《はず》がおまへん。」
 ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。
 九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。
 木村はあつと思つた。な
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