。」と言つた。この詞にはげまされて十年、そしていま将棋指しとしての一生を賭けた将棋を指さうとして、坂田のたつた一つの心残りは、わいもこんな将棋指しになつたぜと細君に言つてきかせられないことではなからうか。細君にその将棋を見て貰へないことではなからうか。
して見れば、対木村の一戦は坂田にとつては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当つてゐられないのは、当然であつたらう。――さう思へば、坂田のあの詞もにはかに重みが加はつて、悲壮である。ところが対局がはじまつて三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかへこんでゐる、これはなんとしたことであらうか。
観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に薦《すす》めたのか、それとも、強いことを言つてゐたけれど、さすがに底冷える寒さにたまりかねて、自分から火鉢がほしいと言ひだしたのであらうか。「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」と自分から強く言ひだした詞を、うつかり忘れてしまふくらゐ耄碌《まうろく》してゐたのか。
あるひはまた、火鉢にもあたるまいといふのは、かへつて勝負にこだはり過ぎ
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