したとも考へられる。「敵に指させて勝つ」といふ理論を、彼一流の流儀で応用したのだと言へないこともない。
 けれど、結果はやはり二手損が災《わざは》ひして、坂田は木村に圧倒的に攻められて、攻撃に出る隙もなく完敗してしまつたのだ。攻撃の速度を重要視してゐる近代将棋に、二手損をもつて向つたのは、さすがに無謀だつたのだ。無理論の坂田将棋は無理論に頼り過ぎて、近代将棋の理論の前に敗れてしまつたのである。
 木村は「奇異な感に打たれた」といふ感想に続いて、
「――が、それと同時に、九四歩を見てからの私は、自分でも不思議な位に、グッと気持が落着いて、五六歩と突く時は相当な自信を得てゐた。そして五五歩の位勝からは、これが攻撃的に必ず威力を発揮し得るもの、と確信づけられた。」と言つてゐる。
 五六歩は七六歩、九四歩に次ぐ第三手目である。五五歩は五手目。つまりは木村は三手指した時に、はや勝つたと確信したのである。いや、九四歩を見た途端に、さう思つたのであらう。
 さうしてみれば、坂田は九四歩を突いた途端に、もう負けてゐたのである。一手六時間といふ長考を要するやうな苦しい将棋をつくりあげた原因は、この九四歩にあつたのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費してゐない。予定の行動だつたのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と大見得切つた時に、はや彼はこの手を考へてゐたのではなからうか。
「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか辛抱《しんぼう》がいります。」対局場での食事の時間に、ふと彼は呟いたといふ。はや苦戦を自覚してゐたのであらう。九四歩のやうな奇手をもつて戦ふのは、なるほど棋士の本懐にはちがひないだらうが、それだけに滝に打たれる苦痛も味ははねばならなかつたのだ。けれど、それも自業自得だつた、と言つては言ひ過ぎだらうか。変つた手を指してあつと言はせてやらうといふ心に押し出されて、自ら滝壺の中へ飛び込んでしまつたのではなからうか。
 変つた将棋は坂田にとつてはもう殆ど宿命的なものだつた。将棋に熱中した余り、学校で習つた字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、――ある時上京して市電に乗らうとしたが、電車の字が読めぬ、弱つてゐるうちにやつと品川行といふ字だけが、品川の川といふ字が坂田三吉の三を横にした形だつたおかげでそれと判つて、助かつた――といふ程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶといふことが出来ない。おまけに師匠といふものがなかつたので、自分ひとりの頭を絞つた将棋を考へだすより仕様がなかつたのだ。自然、自分の才能、個性だけを頼りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の舳《へさき》をもつてぐるりとひつくり返すやうな我流の将棋をつくるやうになつた。無学、無師匠の上に、個性が強すぎたのだ。ひとつには、泉州の人らしい茶目気もあつたらう。が、それ故に、坂田将棋は一時|覇《は》を唱へ、また人気も出た。自信も湧いて来た。角頭の歩を突いたり、名人を自称したり、いはば横紙を破る強気も生じたのだ。が、この強気の故に彼は永い間沈黙を守らねばならぬ破目になつた。さうして、三年間といふもの、彼は人にも会はず外出もせず駒を手にせず、ひたすら自分の心を見つめて来た。何を考へ、何を発見したか、無論私には判らない。が、しかし「その時の坐蒲団がいまだにへつこんでゐます。」といふくらゐの沈思黙考の間に、彼が栓ぬき瓢箪の将棋観をいよいよ深めたであらうことは、私にも想像される。我の強気を去らなくては良い将棋は指せないといふ持論をますます強くしたのではなからうか。さうして、その現はれが、攻め勝たうとする速度を急ぐ近代将棋に反抗する九四歩だつたのではなからうか。つまりは、九四歩は我を去らうとする手であつたのではなからうか。けれど、一面これくらゐ坂田の我を示す手はないのだ。坂田は依然として坂田であた。彼は九四歩の手損を無論知つてゐたに違ひない。が、平手将棋は先後いづれも駒が互角だから、最初の一手をどう指さうと、隙のないやうには組めるものだ、最初の一手ぐらゐで躓《つまづ》くやうな坂田の将棋ではない、無理な手を指しても融通無碍《ゆうづうむげ》に軽くさばくのが坂田将棋の本領だといふ自信の方が強かつたのだ。この自信があつたから、彼は十六年振りに立つたのである。さうして、彼は生涯の最も大事な将棋に最も乱暴な手を指したのである。
 これはもう魔がさしたといふやうなものではなかつたのだ。坂田といふ人にとつては、もうこれほど自然な手はなかつたのである。自分の芸境を一途《いちづ》に貫いたまでの話である。なんの不思議もない。けれど、その時彼がかつて大衆の人気を博したいはゆる坂田将棋の亡霊に憑《つ》かれてゐたことは確かであらう。おまけに、なんといつても
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