六十八歳である。さうまで人気を顧慮しなくてもと思はれる。なにか老化粧の痛ましさが見えるのである。
 大衆は勿論|喝采《かつさい》した。が、いよいよ負けたと判ると、なんだいといふ顔をした。
「あんな莫迦《ばか》な手を指す奴があるか。」と薄情な唇で囁いた。専門の棋士の中にもさういふことをいふ者があつた。
 対局の終つたのは、七日目の紀元節であつた。前日からの南禅寺の杉木立に雨の煙つてゐる朝の九時五分にはじめて、午に一旦休憩し、無口な昼食のあと午後一時から再開して、一時七分にはもう坂田は駒を投げた。雨はやんでゐなかつた。
 対局者は打ち揃つて南禅寺の本堂に詣り、それから宝物を拝観した。坂田は、
「おほきに御苦労はんでござります。」と、びつくりするほど丁寧なお辞儀をして歩いた。五十五年間、勝負師として生きて来た鋭さがどこにあらうかと思はれるくらゐの丁寧なお辞儀であつた。
 書院で法務部長から茶菓を饗された時も、頭を畳につけて、
「おほけに御馳走《ごつと》はんでした。」と言つた。特徴のある太短かい首が急にげつそりと肉を落して、七日間の労苦がもぎとつて行つたやうだつた。
 迎への自動車に乗らうとする時、うしろからさした傘のしづくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にはかに胸が熱くなつた。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想ひがした。
 坂田は不景気な顔で何やらぽそぽそ呟いてゐたが、自動車《くるま》が急にカーヴした拍子に、
「あ、そや、そや。……」と叫んだ。
「えツ、何だす?」玉江は俄《には》かに生々として来た父の顔を見た。
「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想ひついたんや。」と、坂田は言はうとしたが、何故か黙つてしまつた。さうして、その想ひつきのしびれるやうな幸福感に暫らく揺られてゐた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だつたとは思はなかつたのである。さうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだらうとは、夢にも思はなかつたのである。
 雨は急にはげしくなつて来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いてゐた。
[#地から1字上げ](昭和十八年八月)



底本:「現代日本文學大系70」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日初版第1刷
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年8月5日公開
2005年9月29日修正
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