るほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。
「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。
 木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。
 いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋|倶楽部《くらぶ》へ、浮かぬ表情で通つてゐた。地下室特有の重く澱《よど》んだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかつたが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかつた。
 察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに蠢《うごめ》いてゐるひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想ひ出したことがあるが、ほんたうにその頃の私の生活は、耳かきですくふほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであつた。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちよろちよろ焼かれてゐたのである。
 さうした私を僅《わづ》かに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢《てあか》と脂で黝《くろず》んでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のやうな青春を失つた病人だとか、さういふ連中が集まるのにふさはしかつた。私はその中にまじつて、こはれ掛つた椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のやうに窮地に陥《お》ちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しよんぼり悲しんでゐたのだつた。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげてゐると、いやな熱が赤く来て、私はもうぐつたりとして、駒を投げ出す、――そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。
 その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで舐《な》めんばかりにして眺め「雌伏《しふく》十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ。」といふ見出しの文句を、誇張した言ひ方だとも思はなかつた。私は眼がぱつと明るくなつたやうな気がして、
「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して呟《つぶや》き、初めて感動といふものを知つたのである。私は九四歩つきといふ一手のもつ青春に、むしろ恍惚《くわうこつ》としてしまつたのだ。
 私のこの時の幸福感は、かつて暗澹《あんたん》たる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。私の将棋の素人であることが、かへつて良かつた。木村はこの九四歩にどう答へるだらうか、九六歩と同じく端の歩を突いて受けるか。それとも一六歩と別の端の歩を突くだらうかなどと、しきりに想像をめぐらし、翌日の新聞を待ち焦れた。六十八歳の老齢で、九四歩などといふ天馬の如き溌剌《はつらつ》とした若々しい奇手を生み出す坂田の青春に、私はぴしやりと鞭打たれたやうな気がし、坂田のこの態度を自分の未来に擬したく思ひながら、その新聞を見ることが、日日|愉《たのし》みとなつたのである。けれど、私にとつては何日間かの幸福であつたこの手は、坂田にとつて幸福な手であらうか。
 素人考へでいへば、局面にもあるだらうが、まづ端の歩を突く時は相手に手抜きをされる惧《おそ》れがある。いはば、手損になり易いのだ。してみれば、後手の坂田は中盤なら知らず、まづはじめに九四歩と端を突いたことによつて、そして案の定相手の木村に手抜きをされたことによつて二手損をしてゐるわけである。けれど、存外これが坂田の思ひであつたのかも知れない。はじめにぼんやり力を抜いて置いて、敵に無理攻めさせて、その隙に反撃を加へるといふ覘《ねら》ひであつたかも知れない。最初の一手で、はや自分の将棋を栓ぬき瓢箪のやうなぼんやりしたものにして置かうと
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