こだはつた時は、丁度、眼前の勝負にかんかんになり過ぎて、気持が焦りに浮き立つてゐた。そこに気がついて、これではいけないと、火鉢を要求したのではなからうか。
けれど、こんな臆測はすべて私の思ひ過しだらう。観戦記録を見ると、対局開始の二月五日といふ日は、下見をした前日と打つてかはつて、京にめづらしいポカポカと暖かい日であつたといふ。それを読んで、私は簡単にすかされてしまつた。その人の弱みにつけこんで言へば、暖かいから火鉢を敬遠したまでのこと、それを「火鉢にあたるやうな……」云々と悲壮めかすのは芝居が過ぎる。あるひは、坂田自身が自分の気持に欺かれてゐたのだらうか。けれども私はかういふところに、かへつて坂田の好ましさを感ずる。寒くなつたら、あわてて前に言つた詞を取り消して火鉢をほしがつたのだらうと断定を下し、しかも私はそこにこの人の正直さをぢかに感じようと思ふのである。
それはともかく、坂田が火鉢を要求した時には、はや栓ぬき瓢箪の気持を想ひ出す必要が来てゐたことは、事実である。その時にはつまり対局開始後三日目にはもう坂田の旗色は随分わるかつたのだ。対局が済んでから令嬢は観戦記者に、
「父は四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました。」と語つたといふが、四日目とは坂田が一日言ひそびれてゐただけのこと、実は三日目からもういけなかつたことは、坂田自身でも判《わか》つてゐたのではなからうか。が、敢て三日目といはなくとも、勝負ははや戦ふ前についてゐたのかも知れない。もつとも、かういふのは何も「勝敗は指さぬうちから決つてます。」といふ彼の日頃の持論をとりあげて言ふのではない。いふならば、坂田は戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と言つた瞬間に、もう負けてしまつたのではなからうか。
対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。
木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。
駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするやうな、平凡の手はもう指せるものかといふ気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見てをれ、あつといふやうな奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に憑《つ》かれて、坂田はふと眼を窓外にそらした。南天の実が庭に赤い。山清水が引かれてゐて、水仙の一株が白い根を洗はれ、そこへ冬の落日が射してゐる。
十二分経つた。坂田の眼は再び盤の上に戻つた。さうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のやうな特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすつと盤の右の端の方へ伸ばした。
その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思つた。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛つた。さうして、音もなくすーつと九四歩と突き進めて、ぢつと盤の上を見つめてゐた。駒のすれる音もせぬしづかな指し方であつた。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思へぬしづけさだつた。
普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を敲《たた》きつける人がおますけど、あらかなひまへん。音を立てるちふのは、その人の将棋がまだ本物になつてん証拠だす。ほんたうの将棋いふもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切つてしもて、自分いふもんが魂の脱け殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言ふ風になつてしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残つてる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘蛛《くも》の糸よりまだ細い糸が出まつしやろ。その細い糸の上に人間が立つてるちふやうな将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸ひこまれてしまふちふと、細い糸の上にも立てます――さういふ将棋でないとほんたうの将棋とは言へまへん。さういふ将棋になりますちふと、もう打つ駒に音が出て来る筈《はず》がおまへん。」
ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。
九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。
木村はあつと思つた。な
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング