見台を畳んで、小脇にかかえ、
「お待ッ遠さん」
 そして、
「珈琲ならどこがよろしおまっしゃろ。別府《ここ》じゃろくな店もおまへんが、まあ『ブラジル』やったら、ちょっとはまし[#「まし」に傍点]でっしゃろか」
 土地の女の顔を見て、通らしく言った。そんな自分が哀れだった。
 キャラメルの広告塔の出ている海の方へ、流川通を下って行った。道を折れ、薄暗い電燈のともっている市営浴場の前を通る時、松本はふと言った。
「こんなところにいるとは知らなんだな」
 東京へ行った由噂にきいてはいたが、まさか別府で落ちぶれているとは知らなんだ――と、そんな言葉のうらを坂田は湯気のにおいと一緒に胸に落した。そのあたり雪明りもなく、なぜか道は暗かった。
 照枝と二人、はじめて別府へ来た晩のことが想い出されるのだった。船を降りた足で、いきなり貸間探しだった。旅館の客引きの手をしょんぼり振り切って、行李を一時預けにすると、寄りそうて歩く道は、しぜん明るい道を避けた。良いところだとはきいてはいたが夜逃げ同然にはるばる東京から流れて来れば、やはり裏通の暗さは身にしみるのだった。湯気のにおいもなにか見知らぬ土地めいた。
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