げやせんよ。書きゃいいんだろう」
しかし振り向いて、私だと判ると、
「――なんだ、君か。いつ来たの?」
「罐詰ですか」
「到頭ひっくくって連れて来やがった。逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い」
欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。
橙色の罫《けい》のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファッショ政治の嵐の中に毅然として立っている小説家の覚悟を書こうとしている評論だなと思った。このような原稿を伏字なしに書くには字句一つの使い方にも細かい神経を要する。武田さんが書き悩んでいるわけもうなずけるのだった。
「僕がおっては邪魔でしょう」
と、出ようとすると、
「いや、居ってくれんと淋しくて困るんだ。なアに書きゃいいんだ」
と、引きとめた。しかし、話はしようとせず、とろんと疲れた眼を放心したように硝子扉の方へ向けていたが、やがて想いがまとまったのか、書きはじめたが、二行ばかり書くと、すぐ消して、紙をまるめ
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