けっぺきしょう》の果てが狂気に通ずるように、頑《かたくな》なその一途さはふと常規を外れていたかも知れない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代《かずよ》という名であったからだ。

 寺田は細君の生きている間競馬場へ足を向けたことは一度もなかった。寺田は京都生れで、中学校も京都A中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校のA中の歴史の教師になったという男にあり勝ちな、小心な律義者《りちぎもの》で、病毒に感染することを惧《おそ》れたのと遊興費が惜《お》しくて、宮川町へも祇園《ぎおん》へも行ったことがないというくらいだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった、といってしまえば簡単だが、ただそれだけではなかった。
 寺田の細君は本名の一代という名で交潤社《こうじゅんしゃ》の女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所《さつえいじょ》の連中や贅沢《ぜいたく》な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采《ふうさい》の上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴い
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