一代に通っていた中島|某《ぼう》はA中の父兄会の役員だったのだ。寺田は素行不良の理由で免職になったことをまるで前科者になってしまったように考え、もはや社会に容《い》れられぬ人間になった気持で、就職口を探しに行こうとはせず、頭から蒲団《ふとん》をかぶって毎日ごろんごろんしていた。夜、一代の柔い胸の円みに触《ふ》れたり、子供のように吸ったりすることが唯一《ゆいいつ》のたのしみで、律義な小心者もふと破れかぶれの情痴《じょうち》めいた日々を送っていたが、一代ももともと夜の時間を奔放《ほんぽう》に送って来た女であった。肩《かた》や胸の歯形を愉《たの》しむようなマゾヒズムの傾向《けいこう》もあった。壁《かべ》一重の隣家を憚《はばか》って、蹴上《けあげ》の旅館へ寺田を連れて行ったりした。そんな旅館を一代が知っていたのかと寺田はふと嫉妬《しっと》の血を燃やしたが、しかしそんな瞬間の想いは一代の魅力《みりょく》ですぐ消えてしまった。
 ある夜、一代は痛いと飛び上った。驚いて口をはなし、手で柔く押《おさ》えると、それでも痛いという、血がにじんでも痛いとは言わなかった女だったのに、妊娠《にんしん》したのかと乳首を見たが黒くもない。何もせぬのに夜通し痛がっていたので、乳腺炎《にゅうせんえん》になったのかと大学病院へ行き、歯形が紫色《むらさきいろ》ににじんでいる胸をさすがに恥《はずか》しそうにひろげて診《み》てもらうと、乳癌《にゅうがん》だった。未産婦で乳癌になるひとは珍《めず》らしいと、医者も不思議がっていた。入院して乳房《ちぶさ》を切り取ってもらった。退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラジウムを掛けに通ったので、教師をしていた間けちけちと蓄《た》めていた貯金もすっかり心細くなってしまい、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯《へんしゅう》の仕事を世話してもらった。ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛《げきつう》を訴《うった》え出した。寺田は夜通し撫《な》ぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗《あぶらあせ》をタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラジウムを掛けに通うだけでいいが、しかし通うのが苦痛で堪《た》え切れないのなら、無理に通わなくてもいいという。その言葉の裏は、死の宣告だった。癌の再発は治らぬものとされているのだ。余り打たぬようにと、医者は寺田の手に鎮痛剤《ちんつうざい》のロンパンを渡《わた》した。モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟《きせき》があるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃《ひごろ》けちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波|治療機《ちりょうき》を取り寄せたり、枇杷《びわ》の葉療法の機械を神戸《こうべ》まで買いに行ったりした。人から聴けば臍《へそ》の緒《お》も煎《せん》じ、牛蒡《ごぼう》の種もいいと聴いて摺鉢《すりばち》でゴシゴシとつぶした。
 しかし一代は衰弱する一方で、水の引くようにみるみる痩《や》せて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭《あくしゅう》はふと死のにおいであった。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物《はれもの》一切《いっさい》にご利益《りやく》があると近所の人に聴いた生駒《いこま》の石切まで一代の腰巻《こしまき》を持って行き、特等の祈祷《きとう》をしてもらった足で、南無《なむ》石切大明神様、なにとぞご利益をもって哀《あわ》れなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走りながらお百度を踏《ふ》んだ帰り、参詣道《さんけいどう》で灸《きゅう》のもぐさを買って来るのだった。それでも一代の激痛は収まらず、注射の切れた時の苦しみ方は生きながらの地獄《じごく》であった。ロンパンがなくなったと気がついて、派出看護婦が近くの医者まで貰いに走っている間、一代は下腹をかきむしるような手つきをしながら、唇《くちびる》を突き出し、ポロポロ涙《なみだ》を流して、のた打ち廻るのだ。世の中にこんな苦痛があったのかと、寺田もともにポロポロ涙を流して、おろおろ見ている。一代は急に、噛《か》んで、噛んで! と叫《さけ》んだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んでもらいたいのだろう。寺田はガブリと一代の肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪《しぼう》で柔かった肩も今は痛々しいくらい痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかったが、一代ももう寺田に肩を噛まれながら昔《むかし》の喜びはなく、痛い痛いと泣く声にも情痴の響《ひび》きはなかった。やっと看護婦が帰って来たが、のろまな看護婦がアンプルを切ったり注射液を吸い上げたり、腕《う
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