で》を消毒したりするのに手間取っているのを見ると、寺田は一代の苦痛を一秒でも早く和《やわら》げてやりたさに、早く早くと自分も手伝ってやるのだった。
 気の弱い寺田はもともと注射が嫌《きら》いで、というより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹込まれていると信じている頑冥《がんめい》な婆《ばあ》さん以上に注射を怖《おそ》れ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼《まっさお》になって卒倒《そっとう》したこともあり、高等教育を受けた男に似合わぬと嗤われていたくらいだから、はじめのうち看護婦が一代の腕をまくり上げただけで、もう隣の部屋《へや》へ逃げ込み、注射が終ってからおそるおそる出て来るというありさまであった。針という感覚だけで参ってしまうような弱い神経なのだ。ところが、癌の苦痛という感覚の前にはもうそんな神経もいつか図太くなって来たのか、背に腹は代えられぬ注射の手伝いをしているうちに、次第に馴《な》れて来て、しまいには夜中看護婦が眠《ねむ》っている間一代のうめき声を聴くと、寺田は見よう見真似《みまね》の針を一代の腕に打ってやるのだった。
 そんなある日、一代の名《な》宛《あて》で速達の葉書が来た。看護婦が銭湯へ行った留守中で、寺田が受け取って見ると「明日《あす》午前十一時、淀《よど》競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い。」と簡単な走り書きで、差出人の名はなかった。葉書|一杯《いっぱい》の筆太《ふでぶと》の字は男の手らしく、高飛車《たかびしゃ》な文調はいずれは一代を自由にしていた男に違いない。去年と同じ場所という葉書はふといやな聯想《れんそう》をさそい、競馬場からの帰り昂奮を新たにするために行ったのは、あの蹴上の旅館だろうかと、寺田は真蒼になった。一代に何人かの男があったことは薄々《うすうす》知っていたが、住所を教えていたところを見ればまだ関係が続いているのかと、感覚的にたまらなかった。寺田はその葉書を破って捨てると、血相を変えて病室へはいって行った。しかし、一代は油汗を流してのたうち廻っていた。激痛の発作がはじまっていたのだ。寺田はあわててロンパンのアンプルを切って、注射器に吸い上げると、いつもの癖で針の先を上向けて、空気を外に出そうとしたが、何思ったのかふと手を停《と》めると、じっと針の先を見つめていた。注射器の中には空気のガラン洞《どう》が出来ている。このまま静脈に刺《さ》してやろうかと、寺田は静脈へ空気を入れると命がないと言った看護婦の言葉を想い出し、狂暴に燃える眼で一代の腕を見た。が、一代の腕は皮膚《ひふ》がカサカサに乾《かわ》いて黝《あおぐろ》く垢《あか》がたまり、悲しいまでに細かった。この腕であの競馬の男の首を背中を腰を物狂おしく抱《だ》いたとは、もう寺田は思えなかった。はだけた寝巻《ねまき》から覗《のぞ》いている胸も手術の跡が醜《みにく》く窪《くぼ》み、女の胸ではなかった。ふと眼を外《そ》らすと、寺田はもう上向けた注射器の底を押《お》して、液を噴《ふ》き上げていた。すると、嫉妬は空気と共に流れ出し、安心した寺田は一代の腕のカサカサした皮をつまみ上げると、プスリと針を突き刺した。ぐっと肉の中まで入れて液を押すと、間もなく薬が効いて来たのか、一代はけろりと静かになり、死んだように眠ってしまったが、耳を澄《す》ませるとかすかな鼾《いびき》はあった。
 それから一週間たったあの夕方、治療に使う枇杷の葉を看護婦と二人《ふたり》で切って籠《かご》に入れていると、うしろからちょっとと一代の声がした。振《ふ》り向くと、唇の間からたらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののような声を出して苦悶《くもん》していた。驚いて看護婦が強心剤のアンプルを切って、消毒もせずに一代の胸に突き刺そうとしたが、肉が固くてはいらなかった。僕《ぼく》にやらせろと寺田が無理矢理突き刺そうとすると、針が折れた。一代の息は絶えていた。歳月がたつと、一代の想出も次第に薄れて行ったが、しかし折れた針の先のように嫉妬の想いだけは不思議に寺田の胸をチクチクと刺し、毎年春と秋競馬のシーズンが来ると、傷口がうずくようだった。競馬をする人間がすべて一代に関係があったように思われて、この嫉妬の激しさは寺田自身にも不思議なくらいであった。ところが、そんな寺田がふとしたことから競馬に凝りだしたのだから、人間というものはなかなか莫迦にならない。
 寺田は一代が死んで間もなく史学雑誌の編輯をやめさせられた。看病に追われて怠《なま》けていた上、一代が死んだ当座ぽかんとして半月も編輯所へ顔を見せなかったのだ。寺田はまた旧師に泣きついて、美術雑誌の編輯の口を世話してもらった。編輯員の二人までがおりから始まった事変に召集《しょうしゅう》されて、欠員があったのだ。こんどは怠けずこ
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