つこつと勤めて二年たつと、編輯長がまた召集されて、そのあとの椅子《いす》へついた。その秋大阪に住んでいるある作家に随筆を頼《たの》むと、〆切《しめきり》の日に速達が来て、原稿《げんこう》は淀の競馬の初日に競馬場へ持って行くから、原稿料を持って淀まで来てくれという。寺田はその速達の字がかつて一代に来た葉書の字とまるで違っていることに安心したが、しかし自分で行くのはさすがにいやだった。といって、ほかの者ではその作家の顔は判《わか》らない。私情で雑誌の発行を遅らせては済まないと、寺田はやはり律義者らしくいやいや競馬場へ出掛けた。ちょうど一|競走《レース》終ったところらしく、スタンドからぞろぞろと引き揚《あ》げて来る群衆の顔を、この中に一代の男がいるはずだとカッと睨《にら》みつけていると、やあ済まん済まんと作家が寄って来て、君を探していたんだよ。どうやら朝からスリ続けて、寺田が持って来る原稿料を当てにしていたらしかった。渡して原稿を貰い、帰ろうとしたが、僕も今日は京都へ廻るから終るまでつき合わないかと引き停められると、寺田はもう気が弱かった。スタンドに並んで作家の口から、君アンナ・カレーニナの競馬の場面読んだ? しかしあれでもないよ、どうも競馬を本当に描写《びょうしゃ》した文学はないね、競馬は女より面白いのにね、僕は競馬場へ女を連れて来る奴《やつ》の気が知れんのだ、競馬があれば僕はもう女はいらんね、その証拠《しょうこ》に僕はいまだに独身だからね、西鶴《さいかく》の五人女に「乗り掛ったる馬」という言葉があるが、僕はこんなスリルを捨てて女に乗り掛ろうとは思わんよ……という話を聴きながら競走《レース》を見ている間、寺田はふと競馬への反感を忘れていた。そして次の競走《レース》でふらふらと馬券を買うと、寺田の買った馬は百六十円の配当をつけた。払戻《はらいもどし》の窓口へさし込んだ手へ、無造作に札《さつ》を載《の》せられた時の快感は、はじめて想いを遂《と》げた一代の肌《はだ》よりもスリルがあり、その馬を教えてくれた作家にふと女心めいた頼もしさを感じながら、寺田はにわかにやみついて行った。
小心な男ほど羽目を外した溺《おぼ》れ方をするのが競馬の不思議さであろうか。手引きをした作家の方が呆《あき》れてしまう位、寺田は向こう見ずな賭《か》け方をした。執筆者《しっぴつしゃ》へ渡す謝礼の金まで注ぎ込み、印刷屋への払いも馬券に変り、ノミ屋へ取られて行った。つねに明日の希望があるところが競馬のありがたさだと言っていた作家も、六日目にはもう印税や稿料の前借がきかなくなったのか、とうとう姿を見せなかった。が、寺田だけは高利貸の金を借りてやって来た。七日目はセルの着物に下駄《げた》ばきで来た。洋服を質入れしたのだ。
そして八日目の今日は淀の最終日であった。これだけは手離《てばな》すまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾《のれん》をくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してしまった気持だった。そして、今日この金をスッてしまえば、自分もまた一代の想いと一緒に死ぬほかはないと、しょんぼり競馬場へはいった途端、どんより曇った空のように暗い寺田の頭にまず閃《ひらめ》いたのは殺してしまったはずの一代の想いであった。女よりもスリルがあるという競馬の魅力に惹かれて来たという気持でもなかった。この最後の一日で取り戻さねば破滅《はめつ》だという気持でもなかった。一代の想いと共に来たのだということよりほかに、もう何も考えられなかった。そしてその想いの激しさは久しぶりに甦《よみがえ》った嫉妬の激しさであろうか、放心したような寺田の表情の中で、眼だけは挑みかかるようにギラついていた。
だから、今日の寺田は一代の一の字をねらって、1の番号ばかし執拗《しつよう》に追い続けていた。その馬がどんな馬であろうと頓着《とんちゃく》せず、勝負にならぬような駄馬《バテ》であればあるほど、自虐《じぎゃく》めいた快感があった。ところが、その日は不思議に1の番号の馬が大穴になった。内枠《うちわく》だから有利だとしたり気にいってみても追っつかぬ位で、さすがの人々も今日は一番がはいるぞと気づいたが、しかしもうそろそろ風向きが変る頃だと、わざと一番を敬遠したくなる競馬心理を嘲笑《ちょうしょう》するように、やはり単で来て、本命のくせに人気が割れたのか意外な好配当をつけたりする。寺田ははじめのうち有頂天《うちょうてん》になって、来た、来た! と飛び上り、まさかと思って諦めていた時など、思わず万歳と叫ぶくらいだったが、もう第八|競走《レース》までに五つも単勝を取ってしまうと、不気味になって来て、いつか重苦しい気持に沈んで行った。すると、あの見知らぬ競馬の男への嫉妬がすっと頭をかすめるの
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング