競馬
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)どんより曇《くも》っていたが

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)第四|角《コーナー》まで
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 朝からどんより曇《くも》っていたが、雨にはならず、低い雲が陰気《いんき》に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持に沈《しず》んでしまいそうだったが、しかしふと通《とお》り魔《ま》が過ぎ去った跡《あと》のような虚《むな》しい慌《あわただ》しさにせき立てられるのは、こんな日は競走《レース》が荒《あ》れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏《たそがれ》がはや忍《しの》び寄ったような翳《かげ》の中を焦躁《しょうそう》の色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
 第四|角《コーナー》まで後方の馬ごみに包まれて、黒地に白い銭形紋《ぜにがたもん》散《ち》らしの騎手《きしゅ》の服も見えず、その馬に投票していた少数の者もほとんど諦《あきら》めかけていたような馬が、最後の直線コースにかかると急に馬ごみの中から抜《ぬ》け出してぐいぐい伸《の》びて行く。鞭《むち》は持たず、伏《ふ》せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱《たづな》をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴《どう》につけた数字の1がぱっと観衆の眼《め》にはいり、1か7か9か6かと眼を凝《こ》らした途端《とたん》、はやゴール直前で白い息を吐《は》いている先頭の馬に並《なら》び、はげしく競り合ったあげく、わずかに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴だ。そして次の障碍《しょうがい》競走《レース》では、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるように落馬し、騎手がその場で絶命するという騒《さわ》ぎの隙《すき》をねらって、腐《くさ》り厩舎《きゅうしゃ》の腐り馬と嗤《わら》われていた馬が見習騎手の鞭にペタペタ尻《しり》をしばかれながらゴールインして単複二百円の配当、馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票していたという話が伝えられるくらいの番狂《ばんくる》わせである。
 そんな競走《レース》が続くと、もう誰《だれ》もかれも得体の知れぬ魔に憑《つ》かれたように馬券の買い方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅《でおく》れや落馬|癖《へき》の有無、騎手の上手《じょうず》下手《へた》、距離《きょり》の適不適まで勘定《かんじょう》に入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤|鉛筆《えんぴつ》で印をつけて来たものも、場内を乱れ飛ぶニュースを耳にすると、途端に惑《まど》わされて印もつけて来なかったような変梃《へんてこ》な馬を買ってしまう。朝、駅で売っている数種類の予想表を照らし合わせどの予想表にも太字で挙げている本命《ほんめい》(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買うという小心な堅実《けんじつ》主義の男が、走るのは畜生《ちくしょう》だし、乗るのは他人だし、本命といっても自分のままになるものか、もう競馬はやめたと予想表は尻に敷《し》いて芝生《しばふ》にちょんぼりと坐《すわ》り、残りの競走《レース》は見送る肚《はら》を決めたのに、競走《レース》場へ現れた馬の中に脱糞《だっぷん》をした馬がいるのを見つけると、あの糞の柔《やわらか》さはただごとでない、昂奮剤《こうふんざい》のせいだ、あの馬は今日《きょう》はやるらしいと、慌てて馬券の売場へ駈《か》け出して行く。三番|片脚《かたあし》乗らんか、三番片脚乗らんかと呶鳴《どな》っている男は、今しがた厩舎の者らしい風体の男が三番の馬券を買って行ったのを見たのだ。三番といえばまるで勝負にならぬ位貧弱な馬で、まさかこれが穴になるとは思えなかったが、やはりその男の風体が気になる、といって二十円損をするのも莫迦《ばか》らしく、馬の片脚五円ずつ出し合って四人で一枚の馬券を買う仲間を探しているのだった。あの男はこの競走《レース》は穴が出そうだと、厩舎のニュースを訊《き》き廻《まわ》ったが、訊く度に違《ちが》う馬を教えられて迷いに迷い、挽馬場《ひきば》と馬券の売場の間をうろうろ行ったり来たりして半泣きになったあげく、血走った眼を閉じて鉛筆の先で出馬表を突《つ》くと、七番に当ったのでラッキーセブンだと喜び、売場へ駈けつけていく途中、知人に会い、何番にするのかと訊けば、五番だという。そうか、やはり五番がいいかねと、五番の馬がスタートでひどく出遅れる癖《くせ》があるのを忘れて、それを買ってしまうのだ。――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々と吹《ふ》かれて右往左往する表情は、何か狂気《きょうき》じみていた。
 寺田はしかしそんなあたり
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