の空気にひとり超然《ちょうぜん》として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走《レース》から1の番号の馬ばかり買いつづけていた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースも聴《き》かず、一つの競走《レース》が済んで次の競走《レース》の馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらいもなく誰よりも先きに、一番! と手をさし込《こ》むのだった。
何番が売れているのかと、人気を調べるために窓口へ寄っていた人々は、余裕《よゆう》綽々《しゃくしゃく》とした寺田の買い方にふと小憎《こにく》らしくなった顔を見上げるのだったが、そんな時寺田の眼は苛々《いらいら》と燃えて急に挑《いど》み掛《かか》るようだった。何かしら思い詰《つ》めているのか放心して仮面《めん》のような虚しさに蒼《あお》ざめていた顔が、瞬間《しゅんかん》カッと血の色を泛《うか》べて、ただごとでない激《はげ》しさであった。
迷いもせず一途《いちず》に1の数字を追うて行く買い方は、行き当りばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれていたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかえって普通《ふつう》でなく、度の過ぎた潔癖症《けっぺきしょう》の果てが狂気に通ずるように、頑《かたくな》なその一途さはふと常規を外れていたかも知れない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代《かずよ》という名であったからだ。
寺田は細君の生きている間競馬場へ足を向けたことは一度もなかった。寺田は京都生れで、中学校も京都A中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校のA中の歴史の教師になったという男にあり勝ちな、小心な律義者《りちぎもの》で、病毒に感染することを惧《おそ》れたのと遊興費が惜《お》しくて、宮川町へも祇園《ぎおん》へも行ったことがないというくらいだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった、といってしまえば簡単だが、ただそれだけではなかった。
寺田の細君は本名の一代という名で交潤社《こうじゅんしゃ》の女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所《さつえいじょ》の連中や贅沢《ぜいたく》な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采《ふうさい》の上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、驚《おどろ》かぬ者はなかった。もっとも一代の方では寺田の野暮《やぼ》な生真面目《きまじめ》さを見込んだのかも知れない。もともと酒場遊びなぞする男ではなかったのだが、ある夜|同僚《どうりょう》に無理矢理|誘《さそ》われて行き、割前勘定になるかも知れないとひやひやしながら、おずおずと黒ビールを飲んでいる寺田の横に坐った時、一代は気が詰りそうになった。ところが、翌《あく》る日から寺田は毎夜一代を目当てに通って来た。置いて行く祝儀《チップ》もすくなく、一代は相手にしなかったが、十日目の夜だしぬけに結婚《けっこん》してくれと言う。隣《となり》のボックスにいる撮影所の助監督《じょかんとく》に秋波を送りながら、いい加減に聴き流していたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかえされているうちに、ふと寺田の一途さに心|惹《ひ》かれた。二十八|歳《さい》の今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談《じょうだん》に思えず、十八の歳《とし》から体を濡《ぬ》らして来た一代にとっては、地道な結婚をするまたとない機会かも知れなかった。思えば自分ももう二十六、そろそろ身を堅《かた》めてもいい歳だろう。都ホテルや京都ホテルで嗅《か》いだ男のポマードの匂《にお》いよりも、野暮天で糞真面目《くそまじめ》ゆえ「お寺さん」で通っている醜男《ぶおとこ》の寺田に作ってやる味噌汁《みそしる》の匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふと想《おも》い出させるような沁々《しみじみ》した幼心のなつかしさだと、一代も一皮|剥《は》げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大《ていだい》出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入れた。
ところが寺田の両親が反対した。「お寺さん」という綽名《あだな》はそれと知らずにつけられたのだが、実は寺田の生家は代々|堀川《ほりかわ》の仏具屋で、寺田の嫁《よめ》も商売柄《しょうばいがら》僧侶《そうりょ》の娘《むすめ》を貰《もら》うつもりだったのだ。反対された寺田は実家を飛び出すと、銀閣寺|附近《ふきん》の西田町に家を借りて一代と世帯《しょたい》を持った。寺田にしては随分《ずいぶん》思い切った大胆《だいたん》さで、それだけ一代にのぼせていたわけだったが、しかし勘当《かんどう》になった上にそのことが勤め先のA中に知れて免職《めんしょく》になると、やはり寺田は蒼くなった。交潤社の客で
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