では真似の出来ない神経なのだ。図太いというのもちょっと違う。つまりは、一種気が小さい方かも知れない。ともかく、滑稽《こっけい》だった。勿論おれはそんな請求には応じなかった。黙って放って置くと、それきりお前はうんともすんとも言って来なかった。

       三

 船場新聞を廃刊してしまうと、お前はすっかり文無しで、たちまち暮しに困った。どうするかと見ていると、お千鶴は家で手内職、お前はもと通り俥をひいて出て、まるで新派劇の舞台が廻ったみたいだった。
 当時、安堂寺橋に巡航船の乗場があり、日本橋まで乗せて二銭五厘で客を呼んでいたが、お前はその乗場に頑張って、巡航船へ乗る客を、俥の方へ横取りしようと、金切声で呶鳴っていた。巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た旗をつけて、景気をつけたものの、客は正直で、同じ二銭五厘で乗る分にはと、やはり速い巡航船の方をえらんだ……とわかった途端に、お前は流しの方へ逆戻った。が、何分取締りがきびしくて、朦朧《もうろう》も許されず、浮かぬ顔をして、一里八銭見当の俥を走らせていたらしかったが、さすがにいつまでもそんなことをしている気のなかった証拠には、……ここらあたり、「真相をあばく」も存外誤植がすくない故、手間を略《はぶ》いて、そのまま借用させてもらうと、――

 ある日、玉造で拾った客を寺町の無量寺まで送って行くと、門の入口に二列に人が並んでいた。ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、
「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、灸《きゅう》の日だんがな」
 と、嗤《わら》われた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だんだん訊くと、二《フ》、三《ミ》、四《ヨ》、六《ム》、七《ナ》の日が灸の日で、この日は無量寺の紋日だっせ、なんし、ここの灸と来たら……途端に想いだしたのは、当時丹造が住んでいた高津四番丁の飴屋《あめや》の路地のはいり口に、ひっそりひとり二階借りしていたおかね婆さんのことだ。
 名前はおかねだが、彼女はおから以外の食物を買うて帰ったためしがないというくらい、貧乏していた。界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった。それというの
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