羞恥ノ花火ヲ揚ゲシ故ナリ。サレバ朝ニ猿ヲ友トセリ」
「昼ニ書ヲ読ミシハ?」
「サレバ、書ハ読ミタル者ヲ聰明ニ成ストハ限ラザルモ、読マザル者ハ必ズ阿呆ニナラン」
「夕ニ武道ノ稽古ヲ成ス所以ハ」
「サレバ、今ヤ天下麻ノ如ク紊レ、武ヲ知ラザレバ皆目《カイモク》知ラザルニ等シキ世ナリ。武芸者ノミココヲ先途ト威張リ散ラシ、武ニアラザレバ人ニアラズトイフガ如キ今日、武ヲ知ラザレバ卑屈ノ想多シ」
「山中ニ濁世厭離ノ穴ヲ見ツケテ、隠棲成ス所以ハ」
「ワレ信州ニカクレモナキアバタ面、即チ余人月並連中トハ、些カ趣ヲ異ニセル面相ノ故ヲ以テ、ゲス俗顔ノ眼ニ触レンコトヲ避ケタリ」
 問答が終ると、老人は殊勝なる返答気に入ったぞと、急にそわそわと起ち上って、ひっきりなしに放屁しながら、洞窟の中を歩きまわり、怪しげな節をつけて、
「ただ人は情けあれ、夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日はあすの昔……」
 と、歌いだしたので、佐助も好む所ゆえ、かねての風流見せるのはこの時とばかり、
「……昨日は今日の初昔……」
 と、受けると、老人はますますわが意を得たらしく、おもしろおかしく放屁放歌を続けたが、やがて昂奮の余り、いきなりおいおいと声をあげて泣きだし、
「ああ、我は遂に超風の極醜なる者に遭遇せり」
 と、あらぬことを口走り、浅間しい限りであった。
 さて、昂奮がしずまると、老人は、
「我汝に鳥人を教えん。余の年来諸国の高き山の嶺より嶺へ、飛行の彷徨を成し来ったのは外にもあらず、如何にもして超風の若者に遭遇して、余が鳥人の術を教えんとの念願からじゃが、今宵汝に超風の者を見出したぞ。俺は人間を見るを好まずといい、貴様は人間に見られるを好まずという、即ち俺と貴様は同醜だ。汝は黒き断崖と赤き断崖と聳え固りて、鳥の声なき深所に隠れたる、形容するに言葉なき者、即ち鬼神も憐憫の為に泣くという極醜の者、しかも亦極めてその醜を恥ずることを知れる者である。汝こそわが鳥人の術を以て、身を隠すに価する者じゃ」
 と、余と言ってみたり、我と言ってみたり、俺と言ってみたり、さまざまな一人称を使うところは、大方混乱している証拠と見えたが、佐助は鳥人の術に心を惹かれて、思わず、
「して、その術とは……?」
 と、叫んだ。
「鳥人の術とは、わが秘法の飛行の術及び火遁、水遁、木遁、金遁、土遁の忍術の謂いなり。まず飛行の術とは、甲賀五十三家の内、特にわが戸沢図書虎家のみに伝わる秘法中の秘法、日の下によって最も気を負える鷲の飛ぶよりも速く、江戸の男を長崎で、一夜の内に討ち果し得るという神変不可思議の術じゃ。また、忍術とは、即ち忍びの術なり。如何なる困苦にも堪うるを、これ能く忍ぶという、一瞬にして五体を隠す所謂五遁の術をも、これ能く忍ぶという。二者を能く忍ぶ即ち忍術の名人なり。忍術の名人にして且つ飛行の術を能くする者即ち鳥人なり。汝よく人間を超克して鳥人とならば、極醜のアバタ面も自由自在に隠し得て、もはや恥すくなからん。されば、只今より伝授せん」
 そう言い放つと同時に、老人は耳も聾する許りの豪屁を放ったが、途端にその姿は臭気もろ共かき消す如く消え失せてしまったので、
「さては、鼬《いたち》に因んだ土遁《どとん》の術か」
 と、うっとりしていると、忽然として現われ、
「忍術には屁の音は要らぬものじゃが、放屁走尿の束の間にも、夢幻の術を行うという所を見せるために、わざと一発放ってみたのじゃ」
 と、破顔一笑した。
 そして、ふと渋い顔になって、
「――そもそも忍びの術とは、古代道臣命勅を奉じ、諷歌倒語を用いられしことは書紀にも見えておるが、後世この法が近江の甲賀に伝えられて、天地人の和を以って行われたのが、甲賀流忍術である……」
 云々と、忍術の講義をはじめている内に、一番鶏の鳴声が聴えた。
 すると、老人にわかに狼狽して、
「はや一番鶏の鳴声が……、やがて山里にげす共の悪声が喧しい。三町四方に蚤の飛ぶのも聴えるこの耳に、うるそうてならんわい」
 と、言いざまに、煙の如く消え去り、さらばじゃという声は、遙か天井より聴えたが、それから毎夜乾の方に星の流れる頃には、必ず現われて、まず蝮蛇の頭をペロペロとくらったあと、鳥人の術の伝授に掛り、三年掛った。
 そしてある夜、鳥居峠の蝮蛇も今宵がくらい収めじゃと、老人はいつも二倍[#いつも二倍(「の」の脱落)はママ]の十匹を、それも春先きの良い奴ばかしを、尻尾も余さず平げたので、ついのぼせてしもうた[#底本では「しまうた」と誤植]のか、おびただしく鼻血を噴きだした。
 驚いた佐助が、蛇の脱殻をまるめて師匠の鼻の穴に詰め込もうとすると、老人は、
「えい、見苦しゅうなるわい。鼻血が停った代りに、人が見て噴きだすわ」
 と、振り払った瞬間、もう姿は見えず、
「――やよ
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