らばじゃ」
「あッ佐助様。待って」
「この醜くさ、この恥かしさ、そなたの前にさらすのも、今宵限りじゃ」
 さらばじゃと、大袈裟な身振りを残すと、あっという間に佐助は駈けだして、その夜のうちに、鳥居峠の四里の山道を登って、やがて除夜の鐘の音も届かぬ山奥の洞窟の中に身を隠してしまった。

 こうして、下界との一切の交通を絶ってしまった佐助は、冬眠中の蛇を掘り[#底本では「堀り」と誤植]出して啖《くら》うと、にわかに精気がついたその勢いで、朝《あした》に猿と遊び、昼は書を読み、夕は檜の立木を相手にひとり木剣を振うている内に三年がたち、アバタの穴が髭にかくれるほどの山男になってしまった。
 ところが、ある夜更け、打ち込んだ檜の大木がすっと遠のいた。
「はて、面妖な」
 と、続けて打って掛ると、右に避け、左に飛んで、更に手応えがない。
「まさしく奇々天怪。動かぬ筈の檜が自由自在に動くとは、まさに尋常の木にあらず。狐狸か、天狗か、森の精か」
 と、呟いた途端に、カラカラと高笑いが聴えたが、姿は見えなかった。
「誰だ? 笑うのは」
「あはは……」
「うぬッ! またしても笑うたな。俺のアバタ面がおかしいか」
「あはは……」
「無礼な奴! 姿を見せずに笑うとは高慢至極! さては鳥居峠の天狗とはうぬがことか。鼻をつく闇に隠れて俺をからかうその高慢な鼻が気にくわぬ。その鼻へし折って、少しは人並みの低さにしてくれるわ。やい。どこだ。空ならば降りて来い。二度と再び舞い上れぬよう、その季節外れの扇をうぬが眼から出た火で焼き捨ててくれるわ。どぶ酒に酔いしれたような、うぬが顔の色を、青丹よし、奈良漬けの香も嗅げぬ若草色に蒼ざめてくれるわ!」
 相も変らぬ駄洒落を飛ばして、きっと睨みつけると、あやし、あやし、不思議の檜はすっと消えて、薄汚い老人がちょぼんと眼の前に立っている。
 手足は土蜘蛛のように、カサカサに痩せさらばえて、腰は二|重《え》に崩れ、咳《せ》いたり痰を吐いたり、水|洟《ばな》をすすり上げたり、涎《よだれ》を流したり老醜とはこのことかむしろ興冷めてしまったが、何れにしても怪しい。
「神《しん》か、仙《せん》か、妖《よう》か」
 と、まず問うたところ、
「あらぬ」
 と、答えた声がキンキンと若やいで、いっそいやらしかった。
「すりゃ人間か」
「人間にして人間にあらず。人間を超克した者だ。天も聴け、地も聴け! 人間は超克さるべき或る物である」
 と、老人はにわかに教師口調になって、天を指したが、天井からは塵一本落ちて来なかったので、更に言葉をはげまして、然しこそこそと落着かぬ眼尻から垂れる眼やにを拭きながら、
「――余は憐れにも醜き人間共の、げす俗顔に余の凉しき瞳を汚されるのを好まず、また喧しい人間共の悪声に、余の汚れなき耳を汚されるのをおそれて、高き山の嶺より嶺へ飛行する戸沢円書虎《ツアラツストラ》、またの名を白雲斎といえる超(鳥)人であるぞ。さるに些か思う所存あって、今宵|新手《にいて》村の上空を飛行せしに、たまたまこの山中に汝の姿を見受けし故、忍術の極意を以って木遁を行いしが、最前よりの汝の働き近頃屈強なり。したが、鹿も通わぬこの山奥に若い身空の隠居いぶかし。先ず問う。何を食うて生きているのじゃ」と、問うたので、度肝を抜いてくれようと、蝮蛇《まむし》を食うている旨答えると、
「日の下にあって、最も聰明にして怖しき毒蛇をくらうとは、近頃珍妙じゃ。殊に蝮蛇の頭肉は猛毒を含みて、熊掌駝蹄《ゆうしょうだてい》[#底本では「いうしょうだてい」とルビ]にも優る天下の珍味」
 と、はやだらしなく涎を垂れたのを見て、佐助は、この醜怪なる老人が蛇の頭を噛る光景は、冬の宿の轆轤《ろくろ》首が油づけの百足《むかで》をくらうくらいの趣きがあろうと、
「いざまずこれへ」
 と、早速老人を洞窟へ案内して、食べ残しの蝮蛇の頭五つに、毒除けの大蛇《おろち》の血を塗って与えると、
「おお、これは珍味」
 老人はペロペロとくいながら、放屁し、あまっさえ坐尿し、何とも行儀のわるい喜び方であった。
 そして老人は、佐助の姓が鷲塚だと聴くと、
「日の下にあって、最も気を負える鷲を姓にいただくとは、近頃たのもし」
 と、見え透いた世辞を使ったあと、佐助との間に、次のような問答を行った。
「汝、朝ニ猿ト遊ブト言フ。ソノ所以ハ」
「サレバ、友ヲ選ベバ悪人、交レバ阿諛追従ノ徒ニ若クハナシトハ、下界人間共ノ以テ金言ト成ス所ナリ。サルヲ、最悪ノ猿ト雖モ、最善ノ人間ヨリ悪ヲ行フ所|尠《スクナ》ク、マタ猿ハ阿諛ヲ知ラヌナリ。猿ニ似テ非ナル猿面冠者ハオノガ立身出世ノタメニハ、主人ヨリ猿々ト呼ビ捨テラレルモ、ヘイヘイト追従笑ヒナド泛《ウカ》ベタルハ、即チ羞恥ヲ知ラザル者ト言フガ如シ。サルヲ、猿ノ赤キ雙頬ハ
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