輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥《おとしい》れながら、轟々《ごうごう》と廻転をし続けていた。
油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差《まなざ》し、あるいはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会を地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然《ひょうぜん》とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎《とが》める人などありはしない。彼はシイカの事を考えていた。モーニングを着たらきっとあなたはよくお似合になるわよ、と言ったシイカの笑顔を。
彼はそっとポケットから、クララ・ボウのプロマイドを取りだして眺めた。屋上に高く聳《そび》えた塔の廻りを、さっきから廻転している探海灯が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫でながら一閃《いっせん》するたびに、クララ・ボウの顔がさっと明るく微笑《ほほえ》んだが、暗くなるとまた、むっつりと暗闇の中で物を想いだした。彼女にはそういうところがあった。シイカには。
彼女は
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