の後姿を見送っている。女が口吟《くちずさ》んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けている。それからくるりと踵《くびす》を返して、あの曲りくねった露路の中を野犬のようにしょんぼりと帰ってくるのだった。
炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひっぱりながら、あの橋の向うの彼女を知ることが、最近の彼の憧憬になっていた。だけど、女が来いと言わないのに、彼がひとりで橋を渡って行くことは、彼にとって、負けた気がしてできなかった。女はいつも定った時間に、蜜柑の後ろで彼を待っていた。女はシイカと言っていた。それ以外の名も、またどう書くのかさえも、彼は知らなかった。どうして彼女と識り合ったのかさえ、もう彼には実感がなかった。
2
夜が都会を包んでいた。新聞社の屋上庭園には、夜風が葬式のように吹いていた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下していた。大通りに沿って、二条に続いた街灯の連りが、限りなく真直ぐに走って、自動車の頭灯《ヘッドライト》が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のように交錯していた。
階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷《す》りだす、アルバート会社製の高速度
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