ているのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思いがけない高い所に、たった一つ、灯がはいっているのです。あすこの事務室で、きっと残務をとっている人々なのでしょう。僕は、……
――まあ、お饒舌《しゃべ》りね、あんたは。どうかしてるんじゃない、今日?
――どうしてです。
――だって、だって眼にいっぱい涙をためて。
――霧ですよ。霧が睫毛《まつげ》にたまったのです。
――あなたは、もう私と会ってくださらないおつもりなの?
――だって君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れていってくれないんですもの。だから、……
 女はきゅうに黙ってしまった。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のように動いて行った。しばらくして、
――いらっしてもいいのよ。だけど、……いらっしゃらない方がいいわ。

 町の外《はず》れに橋があった。橋の向うはいつでも霧がかかっていた。女はその橋の袂《たもと》へ来ると、きまって、さよなら、と言った。そうして振り返りもせずに、さっさと橋を渡って帰って行った。彼はぼんやりと橋の袂の街灯に凭《よ》りかかって、靄の中に消えて行く女
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