蜜柑の後ろで拗《す》ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつん[#「つん」に傍点]として、ナプキンの紙で拵《こしら》えた人形に燐寸《マッチ》の火をつけていた。人形は燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子《テーブル》の上に散らかっていた。
――遅かった。
――……
――どうかしたの?
――……
――クリイムがついていますよ、口の廻りに。
――そう?
――僕は窓を見ていると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗《うるわ》しい象徴だと思うのです。
――そう?
――今も人のうようよと吐《は》きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴《ベル》です自動車の頭灯《ヘッドライト》です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢《うごめ》く、ちょうど海の底の魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消え
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