。後にこの人は楽屋白粉《がくやおしろい》というものをつくって売り出すような事をしたものである。
 話が前後したが、成島柳北《なるしまりゅうほく》の『柳橋新誌《りゅうきょうしんし》』の第二篇は、明治七年に出た。これは柳暗《りゅうあん》のことを書いたものである。その他に『東京新繁昌記《とうきょうしんはんじょうき》』も出た。新しい西欧文明をとり入れ出した東京の姿を書いたもので、馬車だとか煉瓦だとかが現われ出した頃のことが書かれてある。これはかの寺門静軒《てらかどせいけん》の『江戸繁昌記《えどはんじょうき》』にならって書かれたものである。
 一体にこの頃のものは、話は面白かったが、読んで味《あじわ》いがなかった。
       ◇
 明治十三、四年の頃、西鶴の古本を得てから、私は湯島に転居し、『都の花』が出ていた頃紅葉君、露伴君に私は西鶴の古本を見せた。
 西鶴は俳諧師で、三十八の歳|延宝《えんぽう》八年の頃、一日に四千句詠じたことがある。貞享《じょうきょう》元年に二万三千五百句を一日一夜のうちによんだ。これは才麿という人が、一日一万句を江戸でよんだことに対抗したものであった。散文を書いたのは、天和《てんな》二年四十二歳の時で、『一代男』がそれである。
 幸い私は西鶴の著書があったので、それを紅葉、露伴、中西梅花《なかにしばいか》(この人は新体詩なるものを最初に創り、『梅花詩集』という本をあらわした記念さるべき人である。後、不幸にも狂人になった)、内田魯庵《うちだろあん》(その頃は花の屋)、石橋忍月《いしばしにんげつ》、依田百川《よだひゃくせん》などの諸君に、それを見せることが出来たのである。
 西鶴は私の四大恩人の一人であるが、私が西鶴を発見したことに関聯してお話ししたいのは、福沢先生の本のことである。福沢先生の本によって、十二、三歳の頃、私ははじめて新らしい西欧の文明を知った。私の家は商家だったが、旧家だったため、草双紙、読本その他|寛政《かんせい》、天明《てんめい》の通人《つうじん》たちの作ったもの、一九《いっく》、京伝《きょうでん》、三馬《さんば》、馬琴《ばきん》、種彦《たねひこ》、烏亭焉馬《うていえんば》などの本が沢山にあった。特に京伝の『骨董集《こっとうしゅう》』は、立派な考証学で、決して孫引《まごび》きのないもので、専《もっぱ》ら『一代男』『一代女』古俳諧等の
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