書から直接に材料をとって来たものであった。この『骨董集』を読んでいるうちに、福沢先生の『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『かたわ娘』によって西洋の文明を示されたのである。(この『かたわ娘』は古い従来の風俗を嘲《わら》ったもので、それに対抗して万亭応賀《まんていおうが》は『当世利口女』を書いた。が私には『当世利口女』はつまらなく『かたわ娘』が面白かったものである。)
 新らしい文明をかくして福沢先生によって学んだが、『骨董集』を読んだために、西鶴が読んでみたくなり出した。が、その頃でも古本が少なかったもので、なかなか手には入らなかった。私の知っていた酒井藤兵衛という古本屋には、山のようにつぶす古本があったものである。何せ明治十五、六年の頃は、古本をつぶしてしまう頃だった。私はその本屋をはじめ、小川町の「三久」、浜町の「京常」、池《いけ》の端《はた》の「バイブル」、駒形の「小林文七」「鳥吉」などから頻《しき》りに西鶴の古本を漁《あさ》り集めた。(この「鳥吉」は、芝居の本を多く扱っていたが、関根只誠《せきねしせい》氏がどういう都合かで売払った本を沢山私のところにもって来てくれたものである。)中川徳基が、昔の研究はまず地理から始めなければならぬ、といって『紫《むらさき》の一本《ひともと》』『江戸咄《えどばなし》』『江戸雀《えどすずめ》』『江戸真砂《えどまさご》六十帖』などいう書物や、古絵図類を集めていたのもこの頃であった。
 西鶴の本は沢山集った。それらを私は幸田、中西、尾崎の諸君に手柄顔《てがらがお》をして見せたものであった。
 そうして西鶴を研究し出した諸君によって、西鶴調なるものが復活したのである。これは、山田美妙斎などによって提唱された言文一致体《げんぶんいっちたい》の文章に対する反抗となったものであって、特に露伴君の文章なぞは、大いに世を動かしたものであった。
 内田魯庵君の著『きのふけふ』(博文館発行)の中に、この頃の私のことは書いてあるから、私の口から申すのはこれくらいで差控えて置きたいと思う。
 私も愛鶴軒《あいかくけん》と言って『読売新聞』に投書していたが、あまり続けて書かなかった。(私は世の中がめんどうになって、愛鶴軒という雅号なども捨ててしまった。そして幸田君にわけを話すと、幸田君は――愛鶴軒は歿《ぼっ》したり――と新聞に書いてくれた。)その後、中西君も『
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング