べき人が出た。『読売』では中坂まときの時分に、若菜貞爾(胡蝶園)という人が出て小説を書いたが、この人は第十二小区(いまの日本橋|馬喰町《ばくろちょう》)の書記をしていた人であった。その他、投書家でもよいものは作者と同じように、原稿料をとっていたように記憶する。(斎藤緑雨《さいとうりょくう》なども、この若菜貞爾にひきたてられて、『報知』に入ったものである。)
 これらの人々によって、その当時演芸道の復活を見たことは、また忘れることの出来ない事実である。旧物に対する蔑視《べっし》と、新らしき物に対する憧憬とが、前述のように烈《はげ》しかったその当時は、役者は勿論のこと、三味線を手にしてさえも、科人《とがにん》のように人々から蔑《おと》しめられたものであった。それ故、演芸に関した事柄などは、新聞にはちょっぴりとも書かれなかった。そうした時代に、浮川福平は都々逸《どどいつ》の新作を矢継早《やつぎばや》に発表し、また仮名垣魯文の如きは、その新聞の殆《ほと》んど半頁を、大胆にも芝居の記事で埋めて、演芸を復活させようとつとめた。
 そのうち、かの『雪中梅《せっちゅうばい》』の作者|末広鉄腸《すえひろてっちょう》が、『朝日新聞』に書いた。また服部誠一翁がいろいろなものを書いた。寛《ひろし》(総生《ふそう》)は寛でさまざまなもの、例えば秘伝の類、芸妓になる心得だとか地獄を買う田地だとかいうようなものを書いて一しきりは流行《はや》ったものである。
 読物はこの頃になっては、ずっと新しくなっていて、丁髷《ちょんまげ》の人物にも洋傘やはやり合羽《がっぱ》を着せなければ、人々がかえり見ないというふうだった。二代目左団次が舞台でモヘルの着物をつけたり、洋傘をさしたりなどしたのもこの頃のことである。が、作は随分沢山出たが、傑作は殆んどなかった。その折に出たのが、坪内逍遥《つぼうちしょうよう》氏の『書生気質《しょせいかたぎ》』であった。この書物はいままでの書物とはくらべものにならぬ優れたもので、さかんに売れたものである。
 版にしないものはいろいろあったが、出たものには山田美妙斎《やまだびみょうさい》が編輯していた『都の花』があった。その他|硯友社《けんゆうしゃ》一派の『文庫』が出ていた。
 劇評では六二連《ろくにれん》の富田砂燕《とみたさえん》という人がいた。この人の前には梅素玄魚という人がいた
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