になり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘《かつら》を髷《まげ》の上に冠ったのなどがありますし、当時の床屋の表には、切った髷を幾《いく》つも吊してあったのは奇観だった。
また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子《はりこ》の筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作《つくり》ものなどを附け、竹では撓《たわ》まって保てなくなると、屋の棟《むね》に飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧《たこ》の大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚《あ》げるのは浅草とか、夜鷹《よたか》の出た大根河岸《だいこがし》などでした。秩父屋《ちちぶや》というのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町《こでんまちょう》へ引移《ひきうつ》して、飾提灯《かざりちょうちん》即ち盆提灯や鬼灯提燈《ほおずきちょうちん》を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋《うまや
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