聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正《しょう》さん僕が若し彼様《あん》な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆《ほとん》ど煙のように過《た》って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お正《しょう》ははんけち[#「はんけち」に傍点]を眼にあてて頭《かしら》を垂れて了った。
「まア可《い》いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌《しゃく》を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居《お》る川村という富豪《かねもち》の子息《むすこ》が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正《しょう》を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ[#「ふざけ」に傍点]散らして先へ行く、大友とお正《しょう》は相並んで静かに歩む、夜《よ》は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流《たにがわ》に沿う町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]として客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
 大友とお正《しょう》は何時
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