てちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺《ほとり》に微笑《ほほえみ》をもらして、
『僕か、僕は東京。』
『それでどちらへお越しでございますナ。』
『八王子へ行くのだ。』
 と答えて客はそこに腰を掛け脚絆《きゃはん》の緒《ひも》を解きにかかった。
『旦那《だんな》、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
 主人《あるじ》は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。
『いや僕は東京だが、今日《きょう》東京から来たのじゃアない、今日は晩《おそ》くなって川崎を出発《たっ》て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
という主人《あるじ》の言葉はあいそ[#「あいそ」に傍点]があっても一体の風《ふう》つきはきわめて無愛嬌《ぶあいきょう》である。年は六十ばかり、肥満《ふと》った体躯《からだ》の上に綿の多い半纒《はんてん》を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々《ふくぶく》しい顔の目《まな》じりが下がっている。それで
前へ 次へ
全24ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング