性情は益々《ますます》荒れて来て、それが慣《なら》い性《せい》となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底《しんてい》には常に二個《ふたり》の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡|氏《うじ》、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗《ひねく》れた焦熬《いらいら》している富岡先生の御機嫌《ごきげん》に少しでも触《さわ》ろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されて了《しま》う。この辺のところは御存知でもあろうが能《よ》く御注意あって、十分|機会《おり》を見定めて話して貰いたい。
 という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込《のみこ》んで、何卒《どうか》機会《おり》を見て甘《うま》くこの縁談を纏《まと》めたいものだと思った。
 三日ばかり経《た》って夜分村長は富岡老人を訪《と》うた。機会《おり》を見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔《きえん》頗《すこぶ》る凄《すさ》まじかったので長居《ながい》を為《せ》ずに帰《かえ》って了った。
 その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で
「馬鹿者! 貴様《きさま》まで大馬鹿になったか? 何が可笑《おか》しいのだ、大馬鹿者!」
 と例の大声で罵《ののし》るのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤《しか》られるのかとそのまま足を停《とど》めて聞耳を聳《た》てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。
「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語《ささや》いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍《そば》に口をつけて、
「お嬢様が叱咤《しか》られているのだ」
「エッお梅|嬢《さん》が※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と村長は眼を開瞳《みは》った。その筈《はず》で、梅子は殆《ほとん》ど富岡老人に従来《これまで》一言《ひとこと》たりとも叱咤《しから》れたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然《まるで》子供のようで、その父子《ふし》の間の如何《いか》にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。
「マアどうして?」村長は驚ろいて訊《たず》ねた。
「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢|様《さん》にはあんなに優しかった老先生がこの二三日《にさんち》はちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、私《わし》も手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、
「あの様子では最早《もう》先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼を瞬《しばだ》たいた。この時老先生の声で
「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で
「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干《いくら》か気嫌《きげん》が宜《え》えだが校長さんも感心に如何《いくら》なんと言われても逆からわないで温和《おとなしゅ》うしているもんだから何時《いつ》か老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」
「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。
 倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へ廻《ま》わった。村長は腕を組んで暫時《しばら》く考えていたが歎息《ためいき》をして、自分の家の方へ引返《ひっかえ》した。

        四

 村長は高山の依頼を言い出す機会《おり》の無いのに引きかえて校長細川繁は殆《ほとん》ど毎夜の如く富岡先生を訪《と》うて十時過ぎ頃まで談話《はなし》ている、談話《はなし》をすると言うよりか寧《むし》ろその愚痴やら悪口《あっこう》やら気焔《きえん》やら自慢噺《じまんばなし》やらの的になっている。先生はこの頃になって酒を被《こうむ》ること益々《ますます》甚《はなは》だしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌《きげん》が愈々《いよいよ》難《むず》かしくなって来た。殊《こと》に変わったのは梅子に対する挙動《ふるまい》で、時によると「馬鹿者! 死んで了《しま》え、貴様《きさま》の在《あ》るお蔭で乃公《おれ》は死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子は能《よ》くこれに堪えて愈々|従順《すなお》に介抱していた。其処《そこ》で倉蔵が
「お嬢様、マア貴嬢《あんた》のような人は御座《ごわ》りませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座《ござ》りますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。
 こんな風で何時《いつ》しか秋の半《なかば》となった。細川繁は風邪《かぜ》を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
 家内《やうち》が珍らしくも寂然《ひっそり》としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭《かしら》を上げないので、愈々|訝《いぶ》かしく能《よ》く見ると蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れているのが洋燈《ランプ》の光にありありと解《わか》る。校長は喫驚《びっく》りして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶《あわただ》しく訊《たず》ねた。梅子は猶《なお》も頭《かしら》を垂れたまま運ばす針を凝視《みつめ》て黙っている。この時次の室《ま》で
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
「私《わたくし》で御座います。細川で御座います」
「此方《こっち》へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
「唯今《ただいま》」と校長が起《た》とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝《ひざ》にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇《ためろ》うたが、一言《ひとこと》も発し得ない、止《とど》まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄《せんりつ》が身うちに漲《みな》ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼《まっさお》になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許《まくらもと》に薬罎《くすりびん》が置いてある。
「オヤ何所《どこ》かお悪う御座いますか」と細川は搾《しぼ》り出《いだ》すような声で漸《やっ》と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂《せき》としている、細川は呼吸《いき》も塞《つま》るべく感じた。暫《しばら》くすると、
「細川! 貴公《おまえ》は乃公《おれ》の所へ元来《いったい》何をしに来るのだ、エ?」
 寝たまま富岡先生は人を圧《お》しつけるような調声《ちょうし》、人を嘲《あざ》けるような声音《こわね》で言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来《いったい》何をしに来るのだ? 乃公《おれ》の見舞に来るのか。娘の御|機嫌《きげん》を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
 校長は眼を閉《つぶ》り歯を喰《くい》しばったまま頭《かしら》を垂《た》れ両の拳《こぶし》を膝《ひざ》に乗せている。
「貴公《おまえ》は娘を狙《ねら》っておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
 細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公は高《たか》が田舎《いなか》の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与《やら》んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
 校長の顔は見る見る紅《くれない》をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵《ののし》る口から能《よ》くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有《ありがた》いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝《つ》いて出ようとする一語を彼はじっと怺《こら》えている。この先生の言としては怪むに足《た》らない、もし理窟《りくつ》を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入《でいり》をしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
 校長は一語を発しない。
「判然《はっきり》と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
 細川はきっと頭《かしら》をあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者《つれやい》に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛《がんせい》を正視した。
「もし乃公が与《や》らぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚《よび》にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返《ねがえり》して反対《むこう》を向いて了った。
 細川は直ちに起って室《へや》を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
「貴下《あなた》何卒《どうか》父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒《どうか》先生を御大切《ごたいせつ》に、貴嬢《あなた》も御大事《ごだいじ》……」終《みな》まで言う能《あた》わず、急いで門を出て了った。
 その夜細川が自宅《うち》に帰ったのは十二時過ぎであった。何処《どこ》を徘徊《うろつ》いていたのか、真蒼《まっさお》な顔色をしてさも困憊《がっかり》している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息《ためいき》をした。

        五

 その翌日より校長細川は出勤して平常《ふだん》の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
 もし富岡先生に罵《のの》しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶《もが》いたであろう、その煩悶《はんもん》も苦痛には相違ないが、これ戦《たたかい》である、彼の意力は克《よ》くこの悩に堪《た》えたであろう。
 然《しか》し今の彼の苦悩は自《みずか》ら解く事の出来ない惑《まどい》である、「何故《なぜ》梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌《かおつき》をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向《むかっ》て自分の希望《のぞみ》を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望《のぞみ》を全く否《いな》む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈《はず》はない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋《こい》ていることを不快には思っていない」との一念が執念《しゅうね》くも細川の心に盤居《わだか》まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常《ふだん》何人《なんびと》に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態《こころもち》を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝《わび》るが如かりしを想起《おもいおこ》す毎に細川はうっとり[#「うっとり」に傍点]と夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情《こころ》燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱《はじ》、夢にも現《うつつ》にもこの苦悩は彼より離れない。
 或時は断然倉蔵に頼んで窃《ひそ》かに文《ふみ》を送り、我情《わがこころ》のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了《しま》った。こういう風で十日ばかり経《た》った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓《ふもと》を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇《であ》った。倉蔵は手に薬罎《くすりびん》を持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然《まるきり》お見えになりません?」倉蔵はないない
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