様子を知りながら素知らぬ風で問うた。
「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊《たず》ねた。
「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処《ここ》というて悪るい風にも見えねえだ。然し最早《もう》長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息《ためいき》をした。
「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。
「お出《いで》なされませ、関《かま》うもんかね、疳癪《かんしゃく》まぎれに何言うたて……」
「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。
「何だかこの頃は始終|鬱屈《ふさい》でばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵は傍《わき》を向いて田甫《たんぼ》の方を眺《なが》め最早《もう》眼をしばだたいている。
「困ったものだナ、先生は相変らず喧《やか》ましく言うかね?」
「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口を用《き》かねえだ」
「妙だねえ」と細川は首をかしげた。
「これまで煩《わず》らったことが有《あっ》ても今度のように元気のないことは無《ね》えが、矢張《やっぱ》り長くない証《しるし》であるらしい」
「そうかも知れん!」と細川は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「それに何だか我が折れて愚に還《かえ》ったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、喧《やか》まし人は矢張《やっぱり》喧しゅうしていてくれる方が可《え》えと思いなされ」
「今夜見舞に行ってみようかしらん」
「是非来なさるが可え、関うもんか!」
「うん……」と細川は暫時《しばら》く考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」
「かしこまりました、是非今夜来なさるが可《え》え」
細川は軽く点頭《うなず》き、二人は分れた。いろいろと考え、種々《いろいろ》に悶《もが》いてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問《とう》ことが出来なかった。
それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目《まじめ》な顔をして校長の宅《うち》へ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚《びっくり》して目を円《まる》くして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶《あいさつ》も為《し》ないで帰って了《しま》った。
梅子からの手紙! 細川繁の手は慄《ふ》るえた。無理もない、曾《かつ》て例のないこと、又有り得《う》べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年《わかもの》の何人も想像することの出来ないことである!
封を切て読み下すと、頗《すこぶ》る短い文《ふみ》で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
細川は直ぐ飛んで往《い》った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々《みちみち》この一言《いちごん》を胸に幾度《いくたび》か繰返した、そして一念|端《はし》なくもその夜の先生の怒罵《どば》に触れると急に足が縮《すく》むよう思った。
然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後《あと》より推《お》し忽《たちま》ち彼を走らしめつ、彼は躊躇《ためら》うことなく門を入った。
居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団《ふとん》に倚掛《よっかか》っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景《ようす》が平常《ふだん》と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処《どこ》かに悲哀の色が動いている。
校長は慇懃《いんぎん》に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何《いかが》で御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快《はっきり》せん」という声さえ衰えて沈んでいる。
「御大事《ごだいじ》になされませんと……」
「イヤ私《わし》も最早《もう》今度はお暇乞《いとまごい》じゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑《えみ》を含んだ。しかし老人は真面目で
「私《わし》も自分の死期の解らぬまでには老耄《もうろく》せん、とても長くはあるまいと思う、其処《そこ》で実は少し折入って貴公《おまえ》と相談したいことがあるのじゃ」
かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々|談声《はなしごえ》が聞え折々|寂《しん》と静まり。又折々老人の咳払《せきばらい》が聞えた。
その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士の許《もと》に送った、その文の意味は次ぎの如くである、――
御申越《おんもうしこ》し以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会《おり》が無かったからである。
先日の御手紙には富岡先生と富岡|氏《し》との二個《ふたり》の人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂《いわゆ》る富岡先生の暴力|益々《ますます》つのり、二六時中富岡氏の顔出《かおだし》する時は全く無かったと言って宜《よろ》しい位、恐らく夢の中《うち》にも富岡先生は荒《あば》れ廻っていただろうと思われる。
これには理由《わけ》があるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子|嬢《さん》を貴所《あなた》に貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他|故郷《くに》の先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれ則《すなわ》ち不平、頑固《がんこ》、偏屈の源因《げんいん》であるから、忽《たちま》ち青筋を立てて了って、的《あて》にしていた貴所《あなた》の挙動《ふるまい》すらも疳癪《かんしゃく》の種となり、遂《つい》に自分で立てた目的を自分で打壊《たたきこわ》して帰国《かえ》って了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子|嬢《さん》の為めに老人の描いていた希望は殆《ほと》んど空《くう》になって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所《そこ》で疳《かん》は益々起る、自暴《やけ》にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真《まこと》に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
現に拙者が貴所《あなた》の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子|嬢《さん》を罵《ののし》る大声《たいせい》が門の外まで聞えた位で、拙者は機会《おり》悪《わる》しと見、直《ただち》に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子|嬢《さん》をすら頭ごなしに叱飛《しかりとば》していたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪《たず》ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
然るに昨夕《さくせき》のこと富岡老人近頃|病床《とこ》にある由《よし》を聞いたから見舞に出かけた、もし機会《おり》が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時《しばら》く会《あわ》ぬ中に全然《すっかり》元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂《いわゆ》る富岡氏、極く世間並の物の能く通暁《わかっ》た老人に為《な》って了ったことである、更に意外なのは拙者の訪問をひどく喜こんで実は招《よ》びにやろうかと思っていたところだとのことである。それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托《いたく》せられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙を呑《の》んだ位であった、其処《そこ》で貴所の一条を持出すに又とない機会《おり》と思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人の方から梅子|嬢《さん》のことを言い出した。それはこうで、娘は細川繁に配する積りである、細川からも望まれている、私《わし》も初は進まなかったが考えてみると娘の為め細川の為め至極良縁だと思う、何卒《どう》か貴所《あなた》その媒酌者《なこうど》になってくれまいかとの言葉。胸に例の一条が在る拙者は言句《ごんく》に塞《つま》って了った、然し直ぐ思い返してこの依頼を快く承諾した。
と云うのは、貴所に対して済ぬようだが、細川が先に申込み老人が既に承知した上は、最早《もはや》貴所の希望は破れたのである、拙者とても致し方がない。更に深く考えてみると、この縁は貴所の申込が好し先であってもそれは成就せず矢張、細川繁の成功に終わるようになっていたのである、と拙者は信ずるその理由は一に貴所の推測に任かす、富岡先生を十分に知っている貴所には直ぐ解るであろう。
かつ拙者は貴所の希望の成就を欲する如く細川の熱望の達することを願う、これに就き少も偏頗《へんぱ》な情《こころ》を持ていない。貴所といえども既に細川の希望が達したと決定《きま》れば細川の為めに喜こばれるであろう。又梅子|嬢《さん》の為にも、喜ばれるであろう。
そして拙者の見たところでは梅子|嬢《さん》もまた細川に嫁《か》することを喜こんでいるようである。
これが良縁でなくてどうしよう。
拙者が媒酌者《なこうど》を承諾するや直ぐ細川を呼びにやった、細川は直ぐ来た、其処《そこ》で梅子|嬢《さん》も一座し四人同席の上、老先生からあらためて細川に向い梅子|嬢《さん》を許すことを語られ又梅子|嬢《さん》の口から、父の処置に就いては少しも異議なく喜んで細川氏に嫁すべきを誓い、婚礼の日は老先生の言うがままに来《きたる》十月二十日と定めた。鬮《くじ》は遂に残者《のこりもの》に落ちた。
貴所からも無論老先生及細川に向て祝詞を送らるることと信ずる。
六
婚礼も目出度《めでた》く済んだ。田舎《いなか》は秋晴|拭《ぬぐ》うが如く、校長細川繁の庭では姉様冠《あねさまかぶり》の花嫁中腰になって張物をしている。
さて富岡先生は十一月の末|終《つい》にこの世を辞して何国《なにくに》は名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠《くろわく》二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚《しんせき》細川繁、友人野上子爵等の名がずらり並んだ。
同国の者はこの広告を見て「先生到頭死んだか」と直ぐ点頭《うなず》いたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪むものもあり、全く気のつかぬ者もあり。
然しこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝《いっかつ》で不平満腹の先生がせめてもの遣悶《こころやり》を知人《ちじん》に由《よ》って洩《も》らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた。
底本:「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫、新潮社
1970(昭和45年)年5月30日初版発行
1983(昭和58年)年7月30日22刷
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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