て去《い》って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻《しき》りと考え込んでいたのである。暫時《しばらく》するとこれも力なげに糸を巻き籠《びく》を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程《ほど》遠からぬ富岡の宅《うち》まで行った。庭先で
「老先生どうかしたのか喃《のう》」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。
「イヤどうもなさらん」
「でも様子が少し違うから私《わし》又どうかなされたかと思うて」
「先生今何をしておいでる?」
「寝ていなさるが枕頭《まくらもと》に嬢様呼んで何か細《こまか》い声で話をしておいでるようで……」
「そうか」
「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」
「晩にでも来る!」
 細川は自分の竿を担《か》ついで籠《びく》をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡《ひ》いていた。
 その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時《いつも》晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪《と》うた。田甫道《たんぼみち》をちらちらする提燈《ちょうちん》の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその
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