三人は一度に「ハッハッハッ……」と笑った。富岡老人|釣竿《つりざお》を投出《なげだ》してぬッくと起上《たちあ》がった。屹度《きっと》三人の方を白眼《にらん》で「大馬鹿者!」と大声に一喝《いっかつ》した。この物凄《ものすご》い声が川面《かわづら》に鳴り響いた。
 対岸《むこう》の三人は喫驚《びっくり》したらしく、それと又気がついたかして忽《たちま》ち声を潜《ひそ》め大急ぎで通り過ぎて了《しま》った。
 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸《むこう》を白眼《にら》んでいたが、次第に眼を遠くの禿山《はげやま》に転じた、姫小松《ひめこまつ》の生《は》えた丘は静に日光を浴びている、その鮮《あざ》やかな光の中にも自然の風物は何処《どこ》ともなく秋の寂寥《せきりょう》を帯びて人の哀情《かなしみ》をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞《たく》ましい老人は凝然《じっ》と眺《なが》めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時《いつ》しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて
「オイ貴公《おまえ》この道具を宅《うち》まで運こんでおくれ、乃公《おれ》は帰るから」
 言い捨てて去《い》って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻《しき》りと考え込んでいたのである。暫時《しばらく》するとこれも力なげに糸を巻き籠《びく》を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程《ほど》遠からぬ富岡の宅《うち》まで行った。庭先で
「老先生どうかしたのか喃《のう》」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。
「イヤどうもなさらん」
「でも様子が少し違うから私《わし》又どうかなされたかと思うて」
「先生今何をしておいでる?」
「寝ていなさるが枕頭《まくらもと》に嬢様呼んで何か細《こまか》い声で話をしておいでるようで……」
「そうか」
「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」
「晩にでも来る!」
 細川は自分の竿を担《か》ついで籠《びく》をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡《ひ》いていた。
 その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時《いつも》晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪《と》うた。田甫道《たんぼみち》をちらちらする提燈《ちょうちん》の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途《みち》で逢《あ》った。逢う度《たび》毎《ごと》に皆《みん》な知る人であるから二言三言の挨拶《あいさつ》はしたが、可い心持はしなかった。
 富岡の門まで行ってみると門は閉《しま》って、内は寂然《ひっそり》としていた。校長は不審に思ったが門を叩《たた》く程の用事もないから、其処《そこ》らを、物思に沈みながらぶらぶらしていると間もなく老僕倉蔵が田甫道を大急ぎで遣《やっ》て来た。
「オイ倉蔵、先生は最早《もう》お寝《やす》みになったのかね?」
「オヤ! 細川先生、老先生は今東京へお出発《たち》になりました!」と呼吸《いき》をはずまして老僕は細川の前へ突立った。
「東京へ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」細川は声も喉《のど》に塞《つま》ったらしい。
「ハア東京へ!」
「マアどうしたのだろう! お梅さんは?」
「御一緒に」
「マアどうしたのだろう!」校長は喫驚《びっくり》すると共に、何とも言い難き苦悩が胸を圧《あっ》して来た。心も空に、気が気ではない。倉蔵は門を開けながら
「マアお入りなされの」
 校長は後について門を入り縁先に腰をかけたが、それも殆《ほとん》ど夢中であったらしい。
「マア先生は何にも知らないのかね?」
「乃公《わし》が何を知るものか、今日釣に行っていたが老先生は何にも言わんからの」
「そうかの?」と倉蔵は不審な顔色《かおつき》をして煙草を吸い初めた。
「貴公《おまえ》理由《わけ》を知らんかね?」
「私《わし》唯《た》だ倉蔵これを急いで村長の処《とこ》へ持て行けと命令《いいつか》りましたからその手紙を村長さん処《とこ》へ持て行って帰宅《かえっ》てみると最早《もう》仕度《したく》が出来ていて、私《わし》直ぐ停車場まで送って今帰った処《とこ》じゃがの、何知るもんかヨ」
「フーン」と校長考えていたが「何日《いつ》頃|帰国《かえ》ると言われた?」
「老先生は十日ばかりしたら帰る、それも能《よ》くは解らんちゅうて……」
「そうか……」と校長は嘆息《ためいき》をしていたが、
「また来る」と細川は突然富岡を出て、その足で直ぐ村長を訪うた。村長は四十|何歳《いくつ》という分別盛りの男で村には非常な信用があり財産もあり、校長は何時《いつ》もこの人を相談相手にしているのである。
「貴公《あんた》富岡先生が東京へ行った事を知っているか」と校長細川は坐に着く
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