や着かぬに問いかけた。
「知っているとも、先刻《さっき》倉蔵が先生の手紙を持って来たが、不在中家の事を托《たの》むと書いてあった」と村長は夜具から頭ばかり出して話している。大津の婚礼に招ねかれたが風邪《かぜ》をひいて出ることが出来ず、寝ていたのである。
「どういう理由《わけ》で急に上京したのだろう?」
「そんな理由《わけ》は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破《みぬい》ていたのである。
「私《わし》には解《げ》せんなア」と校長は嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。
「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当《あて》が外《はず》れたのサ、其処《そこ》で宜《よろ》しい此処《こっち》にもその積《つもり》があるとお梅|嬢《さん》を連れて東京へ行って江藤侯や井下《いのした》伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ」
「そうかしらん?」
「そうとも! それに先生は平常《ふだん》から高山々々と讃《ほ》めちぎっていたから多分井下伯に言ってお梅|嬢《さん》を高山に押付ける積りだろう、可《い》いサ高山もお梅|嬢《さん》なら兼て狙《ねら》っていたのだから」
「そうかしらん?」と細川の声は慄《ふる》えている。
「そうとも! それで大津の鼻をあかしてやろうと言うんだろう、可いサ、先生も最早《もう》あれで余程《よほど》老衰《よわっ》て御坐るから早くお梅|嬢《さん》のことを決定《きめ》たら肩が安まって安心して死ねるだろうから」 
 村長は理の当然を平気で語った。一つには細川に早く思いあきらめさしたい積りで。
「全くそうだ、先生も如彼《ああ》見えても長くはあるまい!」と力なさそうに言って校長は間もなく村長の宅《うち》を辞した。
 憐《あわれ》むべし細川繁! 彼は全く失望して了って。その失望の中には一《いつ》の苦悩が雑《まじ》っておる。彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於《おい》て大津も高山も長谷川も凌《しの》いでいた、富岡の塾でも一番出来が可《よ》かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入《い》る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等|二三子《にさんし》には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優《まさ》った者のように思ってお梅|嬢《さん》に熨斗《のし》を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑《の》まなければならぬこととなった。
 然し彼は資性篤実で又能く物に堪《た》え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務《つとめ》を怠るようなことは為《し》ない。平常《いつも》のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数《す》百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処《どこ》となく彼に伴うている。

        二

 富岡先生が突然上京してから一週間目のことであった、先生は梅子を伴うて帰国《かえ》って来た。校長細川は「今|帰国《かえ》ったから今夜遊びに来い」との老先生の手紙を読んだ時には思わず四辺《あたり》を見廻わした。
 自分勝手な空想を描きながら急いで往《い》ってみると、村長は最早《もう》座に居て酒が初まっていた。梅子は例の如く笑味《えみ》を含んで老父の酌をしている。
「ヤ細川! 突如《だしぬけ》に出発《たった》ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪《しゃく》に触《さわ》ることばかりだったから三日居て出立《たっ》て了《しま》った。今も話しているところじゃが東京に居る故国《くに》の者は皆《みん》なだめだぞ、碌《ろく》な奴《やつ》は一匹も居《お》らんぞ!」
 校長は全然《まるで》何のことだか、煙に捲《ま》かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富岡先生と村長の顔を見比べているばかりである。村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。
「エえまア聞いてくれこうだ、乃公《おれ》は娘を連れて井下|聞吉《ぶんきち》の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国《くに》からわざわざ乃公《おれ》が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵顔《こうしゃくづら》や伯爵顔を遠慮なくさらけ[#「さらけ」に傍点]出してその※[#「傲」の「にんべん」に代えて「りっしんべん」、第4水準2−12−67]慢無礼《ごうまんぶれい》な風たら無かった。乃公もグイと癪に触ったから半時も居らんでずんずん宿へ帰《もど》ってやった」と一杯|一呼吸《ひといき》に飲み干して校長に
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング