富岡先生
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)詳細《くわし》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何|公爵《こうしゃく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)東京へ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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        一

 何|公爵《こうしゃく》の旧領地とばかり、詳細《くわし》い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機《はずみ》から雲梯《うんてい》をすべり落ちて、遂《つい》には男爵どころか県知事の椅子|一《ひとつ》にも有《あり》つき得ず、空《むな》しく故郷《くに》に引込んで老朽ちんとする人物も少くはない、こういう人物に限ぎって変物《かわりもの》である、頑固《がんこ》である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失なわない。
 富岡先生、と言えばその界隈《かいわい》で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴《やつ》か」と直ぐ御承知の、そして眉《まゆ》をひそめらるる者も随分あるらしい程《ほど》の知名な老人である。
 さて然《しか》らば先生は故郷《くに》で何を為《し》ていたかというに、親族が世話するというのも拒《こば》んで、広い田の中の一軒屋の、五間《いつま》ばかりあるを、何々|塾《じゅく》と名《なづ》け、近郷《きんじょ》の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子《ばっし》を対手《あいて》に一人の老僕に家事を任かして。
 この一人の末子は梅子という未《ま》だ六七《むつななつ》の頃から珍らしい容貌佳《きりょうよ》しで、年頃になれば非常の美人になるだろうと衆人《みんな》から噂《うわさ》されていた娘であるが、果してその通りで、年の行く毎《ごと》に益々《ますます》美しく成る、十七の春も空しく過ぎて十八の夏の末、東京ならば学校の新学期の初まるも遠くはないという時分のこと、法学士|大津定二郎《おおつていじろう》が帰省した。
 富岡先生の何々塾から出て(無論小学校に通いながら漢学を学び)遂に大学まで卒業した者がその頃三名ある、この三人とも梅子|嬢《さん》は乃公《おれ》の者と自分で決定《きめ》ていたらしいことは略《ほぼ》世間でも嗅《か》ぎつけていた事実で、これには誰《たれ》も異議がなく、但《ただ》し三人の中《うち》何人《だれ》が遂に梅子|嬢《さん》を連れて東京に帰り得《う》るかと、他所《よそ》ながら指を啣《くわ》えて見物している青年《わかもの》も少くはなかった。
 法学士大津定二郎が帰省した。彼は三人の一人である。何峠から以西《いせい》、何川辺までの、何町、何村、字《あざ》何の何という処々《しょしょ》の家の、種々の雑談に一つ新しい興味ある問題が加わった。愈々《いよいよ》大津の息子はお梅さんを貰《もら》いに帰ったのだろう、甘《うま》く行けば後《あと》の高山の文《ぶん》さんと長谷川の息子が失望するだろう、何に田舎《いなか》でこそお梅さんは美人じゃが東京に行けばあの位の女は沢山《やれ》にありますから後の二人だってお梅さんばかり狙《ねら》うてもおらんよ、など厄鬼《やっき》になりて討論する婦人連もあった。
 或日の夕暮、一人の若い品の佳《い》い洋服の紳士が富岡先生の家の前えに停止《たちど》まって、頻《しき》りと内の様子を窺《うかが》ってはもじもじしていたが遂に門を入《はい》って玄関先に突立《つった》って、
「お頼みします」という声さえ少し顫《ふる》えていたらしい。
「誰か来たぞ!」と怒鳴ったのは確《たしか》に先生の声である。
 襖《ふすま》が静《しずか》に開いて現われたのが梅子である。紳士の顔も梅子の顔も一時《いちじ》にさっと紅《こう》をさした。梅子はわずかに会釈して内に入った。
「何だ、大津の定さんが来た?、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。
 大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔《かみ》漢学の素読《そどく》を授った室《へや》に通った。無論大学に居た時分、一夏帰省した時も訪《と》うた事はある。
 老漢学者と新法学士との談話《はなし》の模様は大概次の如くであった。
「ヤア大津、帰省《かえ》ったか」
「ともかく法学士に成りました」
「それが何だ、エ?」
「内務省に出る事に決定《きま》りました、江藤さんのお世話で」
「フンそうか、それで目出度《めでた》いというのか。然し江藤さんとは全体誰の事じゃ」
「江藤侯のことで……直文《ちょくぶん》さんのことで」
「ウーン三輔《さんすけ》のことか、そうか、三輔なら三輔と早く言えば可《え》えに。時に三輔
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