は達者かナ」
「相変らず元気で御座います」
「フンそうか、それは結構じゃ、狂之助は?」
「御丈夫のようで御座います」
「そうか、今度|逢《あ》ったら乃公《わし》が宜《よ》く言ったと言っとくれ!」
「承知致しました」
「ちっと手紙でもよこせと言え。エ、侯爵面《こうしゃくづら》して古い士族を忘れんなと言え。全体|彼奴《あいつ》等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚《なよご》しだぞ。乃公《わし》に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴《き》かん理由《わけ》にいかん」
先ずこんな調子。それで富岡先生は平気な顔して御座る。大津は間もなく辞して玄関に出ると、梅子が送って来た。大津は梅子の顔を横目で見て、「またその内」とばかり、すたこらと門を出て吻《ほっ》と息を吐《つ》いた。
「だめだ! まだあの高慢|狂気《きちがい》が治《なお》らない。梅子さんこそ可《い》い面《つら》の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道《たんぼみち》を辿《たど》りながら呟《つぶ》やいたが胸の中は余り穏《おだやか》でなかった。
五六日|経《た》つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首を傾けて意外という顔色《かおつき》をした。然し事実全くそうで、黒田という地主の娘玉子嬢、容貌《きりょう》は梅子と比べると余程落ちるが、県の女学校を卒業してちょうど帰郷《かえ》ったばかりのところを、友人|某《なにがし》の奔走で遂に大津と結婚することに決定《きまっ》たのである。妙なものでこう決定《きま》ると、サアこれからは長谷川と高山の競争だ、お梅さんは何方《どっち》の物になるだろうと、大声で喋舌《しゃべ》る馬面《うまがお》の若い連中も出て来た。
ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動《さわぎ》は尋常《ひととおり》でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀《しゅうぎ》の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於《お》ける岩崎三井の祝事《いわいごと》どころではない、大変な騒ぎである。両家は必死になって婚儀の準備に忙殺されている。
その愈々《いよいよ》婚礼の晩という日の午後三時頃でもあろうか。村の小川、海に流れ出る最近《まぢか》の川柳|繁《しげ》れる小陰に釣を垂《たる》る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。
二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮《あざ》やかな日景《ひかげ》は遠村近郊小丘樹林を隈《くま》なく照らしている、二人の背はこの夕陽《ゆうひ》をあびてその傾《かたぶ》いた麦藁帽子《むぎわらぼうし》とその白い湯衣地《ゆかたじ》とを真《ま》ともに照りつけられている。
二人とも余り多く話さないで何となく物思に沈んでいたようであったが、突然校長の細川は富岡老人の方を振向いて
「先生は今夜大津の婚礼に招かれましたか」
「ウン招《よ》ばれたが乃公《おれ》は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。
「貴様《おまえ》はどうじゃ?」
「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招《よび》もしません」
「招んだって行くな。あんな軽薄な奴《やつ》のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ! あれから見ると同じ大学を出ても高山や長谷川は人間が一等上だのう、その中《うち》でも高山は余程見込がある男だぞ」
細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視《みつ》めている。富岡老人も黙って了《しま》った。
暫《しばら》くすると川向《かわむこう》の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭《かげ》で姿は能《よ》く見えぬが、帽子と洋傘《こうもり》とが折り折り木間《このま》から隠見する。そして声音《こわね》で明らかに一人は大津定二郎一人は友人|某《ぼう》、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処《ここ》に蹲居《しゃが》んでいることは無論気がつかない。
「だって貴様《あなた》は富岡のお梅|嬢《さん》に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。
「嘘《うそ》サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺《がんこおやじ》の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐《かわい》そうなものだ、あの高慢|狂気《きちがい》のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング