[#「に」に「ママ」の注記]は情《なさけ》ない次第《しだい》である。』
『旅《たび》は道連《みちづれ》、世《よ》は情《なさけ》といふが、世《よ》は情《なさけ》であらうと無《な》からうと別問題《べつもんだい》として旅《たび》の道連《みちづれ》は難有《ありが》たい、マサカ獨《ひと》りでは喋舌《しやべ》れないが二人《ふたり》なら對手《あひて》が泥棒《どろぼう》であつても喋舌《しやべ》りながら歩《ある》くことが出來《でき》る。』など、それからそれと考《かんが》へて居《ゐ》るうち又《また》眠《ねむ》くなつて來《き》た。
 睡眠《ねむり》は安息《あんそく》だ。自分《じぶん》は眠《ねむ》ることが何《なに》より好《す》きである。けれど爲《しよ》うことなしに眠《ねむ》るのはあたら一|生涯《しやうがい》の一|部分《ぶゝん》をたゞで失《な》くすやうな氣がして頗《すこぶ》る不愉快《ふゆくわい》に感《かん》ずる、處《ところ》が今《いま》の場合《ばあひ》、如何《いかん》とも爲《し》がたい、眼《め》の閉《とづ》るに任《ま》かして置《お》いた。
[#改行天付きはママ]幾分位《いくら》眠《ねむ》つたか知《し》らぬが夢現《ゆめうつゝ》の中《うち》に次《つぎ》のやうな談話《はなし》が途斷《とぎ》れ/\に耳《みゝ》に入《はひ》る。
『貴方《あなた》お腹《なか》が空《す》きましたか。』
『……甚《ひど》く空《す》いた。』
『私《わたし》も大變《たいへん》空《す》きました。大船《おほふな》でお辨《べん》を買《か》ひましよう。』
 成程《なるほど》こんな談《はなし》を聞《き》いて見《み》ると腹《はら》が空《す》いたやうでもある。まして沈默家《ちんもくか》の特長《とくちやう》として義母《おつかさん》も必定《きつと》さうだらうと、
『義母《おつかさん》お腹《なか》が空《す》きましたらう。』
『イヽエ、そうでも有《あ》りませんよ。』
『大船《おほふな》へ着《つ》いたら何《なに》か食《た》べましよう。』
『今度《こんど》が大船《おほふな》ですか。』
『私《わたし》は眠《ね》て居《ゐ》たから能《よ》く分《わか》りませんが、』と言ひながら外景《そと》を見《み》ると丘山樹林《きうざんじゆりん》の容樣《かたち》が正《まさ》にそれなので
『エヽ、最早直《もうす》ぐ大船《おほふな》です。』
『大變《たいへん》早《はや》いこと!』

        四

 大船《おほふな》に着《つ》くや老夫婦《としよりふうふ》が逸早《いちはや》く押《おし》ずしと辨當《べんたう》を買《か》ひこんだのを見《み》て自分《じぶん》も其《その》眞似《まね》をして同《おな》じものを求《もと》めた。頸筋《くびすぢ》は豚《ぶた》に似《に》て聲《こゑ》までが其《それ》らしい老人《らうじん》は辨當《べんたう》をむしやつき[#「むしやつき」に傍点]、少《すこ》し上方辯《かみがたべん》を混《ま》ぜた五十|幾歳位《いくさいぐらゐ》の老婦人《らうふじん》はすし[#「すし」に傍点]を頬張《ほゝば》りはじめた。
 自分《じぶん》は先《ま》づ押《おし》ずし[#「ずし」に傍点]なるものを一つ摘《つま》んで見《み》たが酢《す》が利《き》き過《す》ぎてとても喰《く》へぬのでお止《や》めにして更《さら》に辨當《べんたう》の一|隅《ぐう》に箸《はし》を着《つ》けて見《み》たがポロ/\飯《めし》で病人《びやうにん》に大毒《だいどく》と悟《さと》り、これも御免《ごめん》を被《かうむ》り、元來《ぐわんらい》小食《せうしよく》の自分《じぶん》、別《べつ》に苦《く》にもならず總《すべ》てを義母《おつかさん》にお任《まかせ》して茶《ちや》ばかり飮《の》んで内心《ないしん》一の悔《くい》を懷《いだ》きながら老人夫婦《としよりふうふ》をそれとなく觀察《くわんさつ》して居《ゐ》た。
『何故《なぜ》「ビールに正宗《まさむね》……」の其《その》何《いづ》れかを買《か》ひ入《い》れなかつたらう』といふが一《ひとつ》の悔《くい》である。大船《おほふな》を發《はつ》して了《しま》へば最早《もう》國府津《こふづ》へ着《つ》くのを待《ま》つ外《ほか》、途中《とちゆう》何《なに》も得《う》ることは出來《でき》ないと思《おも》ふと、淺間《あさま》しい事《こと》には猶《な》ほ殘念《ざんねん》で堪《たま》らない。
『酒《さけ》を買《か》へば可《よ》かつた。惜《を》しいことを爲《し》た』
『ほんとに、さうでしたねえ』と誰《だれ》か合槌《あひづち》を打《うつ》て呉《く》れた、と思《おも》ふと大違《おほちがひ》の眞中《まんなか》。義母《おつかさん》は今《いま》しも下《した》を向《むい》て蒲鉾《かまぼこ》を食《く》ひ欠《か》いで居《を》らるゝ所《ところ》であつた。
 大磯《おほいそ》近《ちか》くなつ
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング