湯ヶ原ゆき
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)定《さだ》めし
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十|近《ぢか》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]《や》せた
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)先《ま》づ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
定《さだ》めし今《いま》時分《じぶん》は閑散《ひま》だらうと、其《その》閑散《ひま》を狙《ねら》つて來《き》て見《み》ると案外《あんぐわい》さうでもなかつた。殊《こと》に自分《じぶん》の投宿《とうしゆく》した中西屋《なかにしや》といふは部室數《へやかず》も三十|近《ぢか》くあつて湯《ゆ》ヶ|原《はら》温泉《をんせん》では第《だい》一といはれて居《ゐ》ながら而《しか》も空室《あきま》はイクラもない程《ほど》の繁盛《はんじやう》であつた。少《すこ》し當《あて》は違《ちが》つたが先《ま》づ/\繁盛《はんじやう》に越《こ》した事《こと》なしと斷念《あきら》めて自分《じぶん》は豫想外《よさうぐわい》の室《へや》に入《はひ》つた。
元來《ぐわんらい》自分《じぶん》は大《だい》の無性者《ぶしやうもの》にて思《おも》ひ立《たつ》た旅行《りよかう》もなか/\實行《じつかう》しないのが今度《こんど》といふ今度《こんど》は友人《いうじん》や家族《かぞく》の切《せつ》なる勸告《くわんこく》でヤツと出掛《でか》けることになつたのである。『其處《そこ》に骨《ほね》の人《ひと》行《ゆ》く』といふ文句《もんく》それ自身《じしん》がふら/\と新宿《しんじゆく》の停車場《ていしやぢやう》に着《つ》いたのは六月二十日の午前《ごぜん》何時であつたか忘《わす》れた。兔《と》も角《かく》、一汽車《ひときしや》乘《の》り遲《おく》れたのである。
同伴者《つれ》は親類《しんるゐ》の義母《おつかさん》であつた。此人《このひと》は途中《とちゆう》萬事《ばんじ》自分《じぶん》の世話《せわ》を燒《や》いて、病人《びやうにん》なる自分《じぶん》を湯《ゆ》ヶ|原《はら》まで送《おく》り屆《とゞ》ける役《やく》を持《もつ》て居《ゐ》たのである。
『どうせ待《ま》つなら品川《しながは》で待《ま》ちましようか、同《おな》じことでも前程《さき》へ行《い》つて居《ゐ》る方《はう》が氣持《きもち》が可《い》いから』
と自分《じぶん》がいふと
『ハア、如何《どう》でも。』
其處《そこ》で國府津《こふづ》までの切符《きつぷ》を買《か》ひ、品川《しながは》まで行《ゆ》き、其《その》プラツトホームで一|時間《じかん》以上《いじやう》も待《ま》つことゝなつた。十一|時頃《じごろ》から熱《ねつ》が出《で》て來《き》たので自分《じぶん》はプラツトホームの眞中《まんなか》に設《まう》けある四|方《はう》硝子張《がらすばり》の待合室《まちあひしつ》に入《はひ》つて小《ちひ》さくなつて居《ゐ》ると呑氣《のんき》なる義母《おつかさん》はそんな事《こと》とは少《すこ》しも御存知《ごぞんじ》なく待合室《まちあひしつ》を出《で》て見《み》たり入《はひ》つて見《み》たり、煙草《たばこ》を喫《すつ》て見《み》たり、自分《じぶん》が折《を》り折り話《はな》しかけても只《た》だ『ハア』『そう』と答《こた》へらるゝだけで、沈々《ちん/\》默々《もく/\》、空々《くう/\》漠々《ばく/\》、三日でも斯《か》うして待《ま》ちますよといはぬ計《ばか》り、悠然《いうぜん》、泰然《たいぜん》、茫然《ばうぜん》、呆然《ぼうぜん》たるものであつた。其中《そのうち》漸《やうや》く神戸《かうべ》行《ゆき》が新橋《しんばし》から來《き》た。特《とく》に國府津《こふづ》止《どまり》の箱《はこ》が三四|輛《りやう》連結《れんけつ》してあるので紅帽《あかばう》の注意《ちゆうい》を幸《さいはひ》にそれに乘《の》り込《こ》むと果《はた》して同乘者《どうじようしや》は老人夫婦《らうじんふうふ》きりで頗《すこぶ》る空《すい》て居《ゐ》た、待《ま》ち疲《くたび》れたのと、熱《ねつ》の出《で》たのとで少《すく》なからず弱《よわつ》て居《ゐ》る身體《からだ》をドツかと投《な》げ下《おろ》すと眼がグラついて思《おも》はずのめり[#「のめり」に傍点]さうにした。
前夜《ぜんや》の雨《あめ》が晴《はれ》て空《そら》は薄雲《うすぐも》の隙間《あひま》から日影《ひかげ》が洩《もれ》ては居《ゐ》るものゝ梅雨《つゆ》季《どき》は爭《あらそ》はれず、天際《てんさ
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