い》は重《おも》い雨雲《あまぐも》が被《おほ》り[#「り」に「ママ」の注記]重《かさ》なつて居《ゐ》た。汽車《きしや》は御丁寧《ごていねい》に各驛《かくえき》を拾《ひろ》つてゆく。
『義母《おつかさん》此處《こゝ》は梅《うめ》で名高《なだか》ひ蒲田《かまた》ですね。』
『そう?』
『義母《おつかさん》田植《たうゑ》が盛《さか》んですね。』
『そうね。』
『御覽《ごらん》なさい、眞紅《まつか》な帶《おび》を結《し》めて居《ゐ》る娘《むすめ》も居《ゐ》ますよ。』
『そうね。』
『義母《おつかさん》川崎《かはさき》へ着《つ》きました。』
『そうね。』
『義母《おつかさん》お大師樣《だいしさま》へ何度《なんど》お參《まゐ》りになりました。』
『何度《なんど》ですか。』
 これでは何方《どつち》が病人《びやうにん》か分《わから》なくなつた。自分《じぶん》も斷念《あきら》めて眼《め》をふさいだ。

        二

 トロリとした間《ま》に鶴見《つるみ》も神奈川《かながは》も過《す》ぎて平沼《ひらぬま》で眼《め》が覺《さ》めた。僅《わづ》かの假寢《うたゝね》ではあるが、それでも氣分《きぶん》がサツパリして多少《いくら》か元氣《げんき》が附《つ》いたので懲《こり》ずまに義母《おつかさん》に
『横濱《よこはま》に寄《よ》らないだけ未《ま》だ可《よ》う御座《ござ》いますね。』
『ハア。』
 是非《ぜひ》もないことゝ自分《じぶん》も斷念《あきら》めて咽喉疾《いんこうしつ》には大敵《たいてき》と知《し》りながら煙草《たばこ》を喫《す》い初《はじ》めた。老人夫婦《らうじんふうふ》は頻《しき》りと話《はな》して居《ゐ》る。而《しか》もこれは婦《をんな》の方《はう》から種々《しゆ/″\》の問題《もんだい》を持出《もちだ》して居《ゐ》るやうだそして多少《いくら》か煩《うるさ》いといふ氣味《きみ》で男《をとこ》はそれに説明《せつめい》を與《あた》へて居《ゐ》たが隨分《ずゐぶん》丁寧《ていねい》な者《もの》で決《けつ》して『ハア』『そう』の比《ひ》ではない。
 若《も》し或人《あるひと》が義母《おつかさん》の脊後《うしろ》から其《その》脊中《せなか》をトンと叩《たゝ》いて『義母《おつかさん》!』と叫《さけ》んだら『オヽ』と驚《おどろ》いて四邊《あたり》をきよろ/\見廻《みまは》して初《はじ》めて自分《じぶん》が汽車《きしや》の中《なか》に在《あ》ること、旅行《りよかう》しつゝあることに氣《き》が附《つ》くだらう。全體《ぜんたい》旅《たび》をしながら何物《なにもの》をも見《み》ず、見《み》ても何等《なんら》の感興《かんきよう》も起《おこ》さず、起《おこ》しても其《それ》を折角《せつかく》の同伴者《つれ》と語《かた》り合《あつ》て更《さら》に興《きよう》を増《ま》すこともしないなら、初《はじ》めから其人《そのひと》は旅《たび》の面白《おもしろ》みを知《し》らないのだ、など自分《じぶん》は獨《ひと》り腹《はら》の中《なか》で愚痴《ぐち》つて居《ゐ》ると
『あれは何《なん》でしよう、そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の三|角《かく》の家《うち》のやうなもの。』
『どれだ。』
『そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の、そら……。』
『どの山《やま》だ』
『そら彼《あ》の山《やま》ですよ。』
『どれだよ。』
『まア貴下《あなた》あれが見《み》えないの。アゝ最早《もう》見《み》えなくなつた。』と老婦人《らうふじん》は殘念《ざんねん》さうに舌打《したうち》をした。義母《おつかさん》は一寸《ちよつ》と其方《そのはう》を見《み》たばかり此時《このとき》自分《じぶん》は思《おも》つた義母《おつかさん》よりか老婦人《らうふじん》の方《はう》が幸福《しあはせ》だと。
 そこで自分《じぶん》は『對話《たいわ》』といふことに就《つい》て考《かんが》へ初《はじ》めた、大袈裟《おほげさ》に言《い》へば『對話哲學《たいわてつがく》』又《ま》たの名《な》を『お喋舌《しやべり》哲學《てつがく》』に就《つい》て。
 自分《じぶん》は先《ま》づ劈頭《へきとう》第《だい》一に『喋舌《しやべ》る事《こと》の出來《でき》ない者《もの》は大馬鹿《おほばか》である』

        三

『喋舌《しやべ》ることの出來《でき》ないのを稱《しよう》して大馬鹿《おほばか》だといふは餘《あま》り殘酷《ひど》いかも知《し》れないが、少《すくな》くとも喋舌《しやべ》らないことを以《もつ》て甚《ひど》く自分《じぶん》で豪《え》らがる者《もの》は馬鹿者《ばかもの》の骨頂《こつちやう》と言《い》つて可《よ》ろしい而《そ》して此種《このしゆ》の馬鹿者《ばかもの》を今《いま》の世《よ》にチヨイ/\見受《みう》けるに
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