けて入《はひつ》て來《き》た者《もの》がある。
 可愛《かはい》さうに景氣《けいき》のよい聲《こゑ》、肺臟《はいざう》から出《で》る聲《こゑ》を聞《き》いたのは十|年《ねん》ぶりのやうな氣《き》がして、自分《じぶん》は思《おも》はず立上《たちあが》つた。見《み》れば友人《いうじん》|M君《エムくん》である。
『何處《どこ》へ?』彼《かれ》は問《と》ふた。
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》へ行《ゆ》く積《つも》りで出《で》て來《き》たのだ。』
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》か。湯《ゆ》ヶ|原《はら》も可《い》いが此頃《このごろ》の天氣《てんき》じやアうんざり[#「うんざり」に傍点]するナア』
『君《きみ》は如何《どう》したのだ。』
『僕《ぼく》は四五日|前《まへ》から小田原《をだはら》の友人《いうじん》の宅《うち》へ遊《あそ》びに行《いつ》て居《ゐ》たのだが、雨《あめ》ばかりで閉口《へいかう》したから、これから歸京《かへら》うと思《おも》ふんだ。』
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》へ行《ゆ》き玉《たま》へ。』
『御免《ごめん》、御免《ごめん》、最早《もう》飽《あ》き/\した。』
 平凡《へいぼん》な會話《くわいわ》じやアないか。平常《ふだん》なら當然《あたりまへ》の挨拶《あいさつ》だ。併《しか》し自分《じぶん》は友《とも》と別《わか》れて電車《でんしや》に乘《の》つた後《あと》でも氣持《きもち》がすが/\して清涼劑《せいりやうざい》を飮《の》んだやうな氣《き》がした。おまけに先刻《さつき》の手早《てばや》き藝當《げいたう》が其《その》效果《きゝめ》を現《あら》はして來《き》たので、自分《じぶん》は自分《じぶん》と腹《はら》が定《き》まり、車窓《しやさう》から雲霧《うんむ》に埋《うも》れた山々《やま/\》を眺《なが》め
『走《はし》れ走《はし》れ電車《でんしや》、』
 圓太郎馬車《ゑんたらうばしや》のやうに喇叭《らつぱ》を吹《ふ》いて呉《く》れると更《さら》に妙《めう》だと思《おも》つた。

        六

 小田原《をだはら》は街《まち》まで長《なが》い其《その》入口《いりぐち》まで來《く》ると細雨《こさめ》が降《ふ》りだしたが、それも降《ふ》りみ降《ふ》らずみたい[#「たい」に傍点]した事《こと》もなく人車鐵道《じんしやてつだう》の發車點《はつしやてん》へ着《つ》いたのが午後《ごゝ
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