ることにしたら。そしてお徳の所有品《もの》は中の部屋の戸棚《とだな》を整理《かたづ》けて入れたら」と細君が一案を出した。
「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。
「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は附加《つけた》した。
「否《いいえ》、私《わたくし》は『中の部屋』のお戸棚《とだな》へ衣類《きもの》を入れさして頂ければ尚《な》お結構で御座《ござい》ます」
「それじゃ先《ま》あそう決定《きめ》るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母が漸《やっ》と口を利《きい》たと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭を掻《か》いて笑った。
「否《いいえ》、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処《あそこ》を開けさすのは泥棒の入口を作《こしら》えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口《ではいりぐち》を作《こしら》えたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に
「静に、静に、そんな大きな声をして聴《きか》れたらどうします。私《わし》も彼処を開けさすのは厭《いや》じゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処を塞《ふさ》げば角が立て面白くない。植木屋さんも何時《いつ》まであんな物置小屋《ものおきごや》みたような所にも居られんで移転《ひっこす》なりどうなりするだろう。そしたら彼所《あそこ》を塞ぐことにして今は唯《た》だ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭を盗《と》られたからってそれを荒立てて彼人者《あんなもの》だちに怨恨《うらま》れたら猶《な》お損になりますぞ。真実《ほんと》に」と老母は老母だけの心配を諄々《じゅんじゅん》と説《とい》た。
「真実《ほんと》にそうよ。お徳はどうかすると譏謔《あてこすり》を言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、反対《あべこべ》に物言《ものいい》を附けられてどんな目に遇《あ》うかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。変妙来《へんみょうらい》な男ねえ。あんな奴に限って向う不見《みず》に人に喰《く》ってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。
「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上《たちあ》がりながら「然《けれ》ども先《ま》ア関係《かかりあ》わんが可い」
 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。
 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常《いつ》も夕方には必然《きっと》水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。
 日が暮て一時間も経《たっ》てから磯吉が水を汲みに来た。

        下

 お源は真蔵に見られても巧《うま》く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下《みおろ》した時は土竈炭《どがまずみ》を袂《たもと》に入れ佐倉炭《さくら》を前掛に包んで左の手で圧《おさ》え、更に一個《ひとつ》取ろうとするところであったが、元来|性質《ひと》の良い邪推などの無い旦那《だんな》だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
 そこで磯吉が仕事から帰る前に布団《ふとん》を被《かぶ》って寝て了《しま》った。寝たって眠むられは仕ない。垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌《しの》げるが一人では板のようにしゃちっ[#「しゃちっ」に傍点]張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄《ふる》えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知《うけとれ》ん位だ。
 色々考えると厭悪《いや》な心地《きもち》がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達《せんだって》からちょく[#「ちょく」に傍点]ちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的《あきらか》に人目を忍んで他《ひと》の物を取ったのは今度が最初《はじめて》であるから一念|其処《そこ》へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖《おそれ》も羞恥《はじ》も籠《こも》っていた。
 眼前《めのさき》にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然《はっきり》出て来る、そしてテレ[#「テレ」に傍点]隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「真実《ほんとう》にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々《そろそろ》逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は性質《ひと》が良いもの」。「性質《ひと》の良いは当にならない」。「性質《ひと》の善良《いい》のは魯鈍《のろま》だ」。と促急込《せきこ》んで独《ひとり》問答をしていたが
「魯鈍《のろま》だ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と添足《つけた》した。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて洋燈《ランプ》を点《つ》けようとも仕ないで、直ぐ首を引込《ひっこめ》て又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。
 頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分で燈《ひ》を点《つ》け、薬罐《やかん》が微温湯《ぬるまゆ》だから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の沸騰《たぎ》るを待つ間は煙草をパクパク吹《ふか》していたが
「どう痛むんだ」
 返事がないので、磯は丸く凸起《もちあが》った布団を少時《しばら》く熟《じっ》と視《み》ていたが
「オイどう痛むんだイ」
 相変らず返事がないので磯は黙って了った。その中《うち》湯が沸騰《わい》て来たから例の通り氷のように冷《ひえ》た飯へ白湯《さゆ》を注《か》けて沢庵《たくあん》をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。
 布団の中でお源が啜泣《すすりなき》する声が聞えたが磯には香物《こうのもの》を噛《か》む音と飯を流し込む音と、美味《うま》いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止《や》んだのである。
 磯が火鉢の縁《ふち》を忽々《こつこつ》叩《たた》き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏《くるま》って其処へ坐った。前が開《あい》て膝頭《ひざがしら》が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上《のぼ》せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻《しき》りに啜泣を為《し》ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽《うろた》えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は最早《もう》つくづく厭《いや》になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと同棲《いっしょ》になってから三年になるが、その間|真実《ほんとう》に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様《しよう》とは思わんけれど、これじゃ余《あんま》りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
 磯は黙っている。
「これじゃ唯《た》だ食って生きてるだけじゃないか。饑死《かつじに》する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰《だれ》だってするよ。それじゃ余《あんま》り情ないと私は思うわ」涙を袖《そで》で拭《ふい》て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯《たっ》た二人きりの生活《くらし》だよ。それがどうだろう、のべつ[#「のべつ」に傍点]貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時《いつ》でもこんな物置か――」
「何を何時までべらべら喋舌《しゃべっ》てるんだい」と磯は矢張《やはり》お源の方は向《むか》ないで、手荒く煙管《きせる》を撃《はた》いて言った。
「お前さん怒るなら何程《いくら》でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込《せきこ》んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら何故《なぜ》お前さん月の中《うち》十日は必然《きっと》休むの? お前さんはお酒は呑《のま》ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯《こんな》貧乏は仕ないんだよ。――」
 磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭《はかりずみ》もろく[#「ろく」に傍点]に買《かえ》ないような情ない……」
 お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏《あさうら》を突掛けるや戸外《そと》へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹《こた》える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家《そこ》を訪《たず》ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛《かえりがけ》に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶《ことわ》られた。
 帰路《かえりみち》に炭屋がある。この店は酒も薪《まき》も量炭《はかりずみ》も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も此店《ここ》へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く終《しま》うのでこの店も最早《もう》閉っていた。磯は少時《しばら》く此店《ここ》の前を迂路々々《うろうろ》していたが急に店の軒下に積である炭俵の一個《ひとつ》をひょい[#「ひょい」に傍点]と肩に乗て直ぐ横の田甫道《たんぼみち》に外《それ》て了った。
 大急で帰宅《かえ》って土間にどしり[#「どしり」に傍点]と俵を下した音に、泣き寝入《ねいり》に寝入っていたお源は眼を覚したが声を出《ださ》なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に潜《もぐ》り込んだ。
 翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚《びっくり》して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を被《かぶ》ってるまま答えた。朝飯《めし》が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「何店《どこ》で買ったの?」
「何処《どこ》だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うお銭《あし》を費《つか》って了《しま》やアしまいね」
 磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて八《や》か間《ま》しく言うから昨夜《ゆうべ》金公の家へ往《い》って借りようとして無《ない》ってやがる。それから直ぐ初公の家《とこ》へ往ったのだ。炭を買うから少《すこし》ばかり貸せといったら一俵位なら俺家《おれんとこ》の酒屋で取って往けと大《おおき》なこと言うから直ぐ其家《そこうち》で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は保《あ》るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、先《ま》ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅《うち》なら十日もあるよ」
 昨夜《ゆうべ》磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難《なや》んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却《かえっ》て疑がわれるとこう考えたのである。
 其処《そこ》で平常《いつも》の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通《ひととおり》片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
 お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか仕《し》たの」
「昨日《きのう》から少し風邪《かぜ》を引たもんですから……」
「用心なさいよ、それは不可《いけな》い」
 お徳は「お早う」と口早に挨拶《あいさつ》したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が
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