全体磯吉は無口の男で又た口の利《き》きようも下手《へた》だがどうかすると啖火交《たんかまじ》りで今のように威勢の可い物の言い振《ぶり》をすることもある、お源にはこれが頗《すこぶ》る嬉《うれ》しかったのである。然しお源には連添《つれそっ》てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者《なまけもの》だか働人《はたらきにん》だか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれで済《すん》でゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのが宅《うち》の磯|様《さん》だと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し何処《どこ》まで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だと頼《たの》もしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外|意久地《いくじ》のない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困り抜《ぬい》た時などで、そう思うと情《なさけ》なくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。
実際磯吉は所謂《いわゆ》る「解らん男」で、大庭の女連《おんなれん》は何となく薄気味《うすきび》悪く思っていた。だからお徳までが磯には憚《はばか》る風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時など嬉《うれし》さが込上げて来るのであった。
それで結極のべつ貧乏の仕飽《しあき》をして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、何時《いつ》も物置か古倉の隅《すみこ》のような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の女房連《かかあれん》から解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。
磯吉の食事《めし》が済むとお源は笊《ざる》を持て駈出《かけだ》して出たが、やがて量炭《はかりずみ》を買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら喋舌《しゃべっ》て聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。
そのうち磯が眠そうに大欠伸《おおあくび》をしたので、お源は垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》を一枚敷いて一枚|被《か》けて二人一緒に一個身体《ひとつからだ》のようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間《すきま》や床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の背部《せなか》は半分外に露出《はみだし》ていた。
中
十二月に入《い》ると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は突然《だしぬけ》に冬の特色を発揮して、流行の郊外生活にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て初て郊外に住んだ連中《れんじゅう》を喫驚《びっくり》さした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿《は》いて厚い外套《がいとう》を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々《きらきら》と輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和《こはるびより》が又|立返《たちもど》ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。
郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は外出《そとで》の仕度に一騒《ひとさわぎ》するのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの着変《きかえ》やら何かに一しきり騒《さわが》しかったのが、出て去《い》った後《あと》は一時に森《しん》となって家内《やうち》は人気《ひとげ》が絶たようになった。
真蔵は銘仙の褞袍《どてら》の上へ兵古帯《へこおび》を巻きつけたまま日射《ひあたり》の可い自分の書斎に寝転《ねころ》んで新聞を読んでいたがお午時《ひる》前になると退屈になり、書斎を出て縁辺《えんがわ》をぶらぶら歩いていると
「兄様《にいさま》」と障子越しにお清が声をかけた。
「何です」
「おホホホホ『何です』だって。お午食《ひる》は何にも有りませんよ」
「かしこ参りました」
「おホホホホ『かしこ参りました』だって真実《ほんと》に何にもないんですよ」
其処《そこ》で真蔵はお清の居る部屋《へや》の障子を開けると、内《なか》ではお清がせっせ[#「せっせ」に傍点]と針仕事をしている。
「大変勉強だね」
「礼ちゃんの被布《ひふ》ですよ、良《い》い柄でしょう」
真蔵はそれには応《こた》えず、其処辺《そこら》を見廻わしていたが、
「も少し日射《ひあたり》の好い部屋で縫《や》ったら可さそうなものだな。そして火鉢《ひばち》もないじゃないか」
「未だ手が凍結《かじけ》るほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに決定《きめ》たのですから」
「何の御倹約だろう」
「炭です」
「炭はなるほど高価《たかく》なったに違ないが宅《うち》で急にそれを節約するほどのことはなかろう」
真蔵は衣食台所元のことなど一切《いっせつ》関係しないから何も知らないのである。
「どうして兄様《にいさん》、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか余程《よっぽど》上なんですもの。これから十二、一、二と先《ま》ず三月が炭の要《い》る盛《さかり》ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価《たか》いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」
「だって炭を倹約して風邪《かぜ》でも引ちゃ何もなりや仕ない」
「まさかそんなことは有りませんわ」
「しかし今日は好い案排《あんばい》に暖かいね。母上《おっかさん》でも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して大欠伸《おおあくび》をして
「何時かしらん」
「最早《もう》直ぐ十二時でしょうよ。お午食《ひる》にしましょうか」
「イヤ未だ腹が一向|空《す》かん。会社だと午食《ひる》の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗《のぞ》きこんだ。女中部屋など従来《これまで》入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首をひょい[#「ひょい」に傍点]と出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして狼狽《うろたえ》きった声を漸《やっ》と出して
「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、堪《たま》りませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から井戸辺《いどばた》にゆくには是非この傍《そば》を通るのである。
真蔵も一寸《ちょっと》狼狽《まごつ》いて答に窮したが
「炭のことは私共に解らんで……」と莞爾《にっこり》微笑《わらっ》てそのまま首を引込めて了った。
真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の所為《しょさ》に就て考がえたが判断が容易に着《つか》ない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に他人《ひと》から瞰下《みおろ》されて理由《わけ》もなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから狼狽《うろた》えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく後《のち》の方に判断したいので、遂にそう心で決定《きめ》てともかく何人《だれ》にもこの事は言わんことにした。
しかし万一《ひょっと》もし盗んでいたとすると放下《うっちゃ》って置いては後《あと》が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行《つづけ》ることは得《え》為《す》すまいと考えたから尚《な》お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。
どちらにしてもお徳が言った通り、彼処《あそこ》へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。
午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅《かえ》って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論《もちろん》、真蔵も引出されて相槌《あいづち》を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場《かんこうば》で大きな人形を強請《ねだ》って困らしたの、電車の中に泥酔者《よっぱらい》が居て衆人《みんな》を苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天《あなた》は寒むがり坊だから大徳で上等|飛切《とびきり》の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度《とめど》がない。そして聞く者よりか喋舌《しゃべっ》ている連中の方が余程《よっぽど》面白そうであった。
先ずこのがやがやが一頻《ひとしきり》止《す》むとお徳は急に何か思い出したように起《たっ》て勝手口を出たが暫時《しばらく》して返って来て、妙に真面目《まじめ》な顔をして眼を円《まる》くして、
「まア驚いた!」と低い声で言って、人々《みんな》の顔をきょろきょろ見廻わした。人々《みんな》も何事が起ったかとお徳の顔を見る。
「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日|屋外《そと》の炭をお出しになりや仕ませんね?」と訊《き》いた。
「否《いいえ》、私は炭籠《すみかご》の炭ほか使《つかわ》ないよ」
「そうら解った、私《わたくし》は去日《このあいだ》からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何《いくら》炭屋が巧計《ずる》をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈《はず》がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当《おもいあた》ってる事があるから昨日《きのう》お源さんの留守に障子の破目《やぶれめ》から内《なか》をちょい[#「ちょい」に傍点]と覗《のぞ》いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢《やぶれひばち》に佐倉が二片《ふたつ》ちゃんと埋《いか》って灰が被《か》けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早《もう》必定《きっと》そうだと決定《きめ》て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄《わな》をかけて此方《こっち》で験《た》めした上と考がえましたから今日|行《や》って試《み》たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。
「どんな係蹄《わな》をかけたの?」とお清が心配そうに訊《き》いた。
「今日出る前に上に並んだ炭に一々|符号《しるし》を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号《しるし》を附けた佐倉が四個《よっつ》そっくり無くなっているので御座います。そして土竈《どがま》は大きなのを二個《ふたつ》上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」
「まアどうしたと云うのだろう」お清は呆《あき》れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は偖《さて》は愈々《いよいよ》と思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張《やはり》見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。
「で御座いますから炭泥棒は何人《だれ》だか最早《もう》解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々《みんな》がこの大事件を喫驚《びっくり》してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那《だんな》を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時《しばら》く誰も黙っていたが
「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々|焦急《じれっ》たくなり、
「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干《いくら》でも取られます」
「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲《うっちゃ》って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由《わけ》を打明けないと決心《きめ》てるから、仕様事なしにこう言った。
「充満《いっぱい》で御座います」とお徳は一言で拒絶した。
「そうか」真蔵は黙って了う。
「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚《とだな》の下を明けて当分ともかく彼処《あそこ》へ炭を入れ
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