竹の木戸
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大庭《おおば》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)河井|様《さん》
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(例)むっと[#「むっと」に傍点]したが、
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上
大庭《おおば》真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里《はんみち》以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可《い》いと言っていた。温厚《おとな》しい性質だから会社でも受が可《よ》かった。
家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のお清《きよ》、七歳《ななつ》になる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女中、以上五人に主人《あるじ》の真蔵を加えて都合六人であった。
細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事は重《おも》にお清とお徳が行《や》っていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。別《わ》けても女中のお徳は年こそ未《ま》だ二十三であるが私はお宅《うち》に一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々この女中の言うことを聞かなければならぬ事もあった。我儘《わがまま》過るとお清から苦情の出る場合もあったが、何しろお徳はお家大事と一生懸命なのだから結極《つまり》はお徳の勝利《かち》に帰するのであった。
生垣《いけがき》一つ隔てて物置同然の小屋があった。それに植木屋夫婦が暮している。亭主が二十七八で、女房はお徳と同年輩位、そしてこの隣交際《となりづきあい》の女性《にょしょう》二人は互に負けず劣らず喋舌《しゃべ》り合っていた。
初め植木屋夫婦が引越して来た時、井戸がないので何卒《どう》か水を汲ましてくれと大庭家に依頼《たの》みに来た。大庭の家ではそれは道理《もっとも》なことだと承諾《ゆる》してやった。それからかれこれ二月ばかり経《た》つと、今度は生垣《いけがき》を三尺ばかり開放《あけ》さしてくれろ、そうすれば一々御門へ迂廻《まわ》らんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、殊《こと》にお徳は盗棒《どろぼう》の入口を造《こしら》えるようなものだと主張した。が、しかし主人《あるじ》真蔵の平常《かねて》の優しい心から遂にこれを許すことになった。其方《そちら》で木戸を丈夫に造り、開閉《あけたて》を厳重にするという条件であったが、植木屋は其処《そこ》らの籔《やぶ》から青竹を切って来て、これに杉の葉など交ぜ加えて無細工《ぶさいく》の木戸を造くって了った。出来上ったのを見てお徳は
「これが木戸だろうか、掛金《かけがね》は何処《どこ》に在《あ》るの。こんな木戸なんか有るも無いも同じことだ」と大声で言った。植木屋の女房のお源は、これを聞きつけ
「それで沢山だ、どうせ私共の力で大工さんの作るような立派な木戸が出来るものか」
と井戸辺《いどばた》で釜《かま》の底を洗いながら言った。
「それじゃア大工さんを頼めば可い」とお徳はお源の言葉が癪《しゃく》に触《さわ》り、植木屋の貧乏なことを知りながら言った。
「頼まれる位なら頼むサ」とお源は軽く言った。
「頼むと来るよ」とお徳は猶一《もひと》つ皮肉を言った。
お源は負けぬ気性だから、これにはむっと[#「むっと」に傍点]したが、大庭家に於《お》けるお徳の勢力を知っているから、逆《さか》らっては損と虫を圧《おさ》えて
「まアそれで勘弁しておくれよ。出入《ではい》りするものは重に私《あたし》ばかりだから私さえ開閉《あけたて》に気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」
と半分折れて出たのでお徳
「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ開閉《あけたて》を厳重に仕ておくれなら先《ま》ア安心だが、お前さんも知ってるだろう此里《ここ》はコソコソ泥棒や屑屋《くずや》の悪い奴《やつ》が漂行《うろうろ》するから油断も間際《すき》もなりや仕ない。そら近頃《このごろ》出来たパン屋の隣に河井|様《さん》て軍人さんがあるだろう。彼家《あそこ》じゃア二三日前に買立の銅《あか》の大きな金盥《かなだらい》をちょろりと盗《や》られたそうだからねえ」
「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸《ちょっ》と休めて振り向いた。
「井戸辺《いどばた》に出ていたのを、女中が屋後《うら》に干物に往《い》ったぽっちり[#「ぽっちり」に傍点]の間《ま》に盗《や》られたのだとサ。矢張《やっぱり》木戸が少しばかし開《あ》いていたのだとサ」
「まア、真実《ほんと》に油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも盗《や》られそうなものは少時《ちょっと》でも戸外《そと》に放棄《うっちゃ》って置かんようになさいよ」
「私《あたし》はまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お前さん宅《うち》の前を通るのだからね」
「ええ気を附けるともね。盗《と》られる日にゃ薪《まき》一本だって炭|一片《ひときれ》だって馬鹿々々しいからね」
「そうだとも。炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の高価《たか》いことは。一俵八十五銭の佐倉《さくら》があれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵の一《ひとつ》を指して、「幾干《いくら》入《はいっ》てるものかね。ほんとに一片何銭に当《つ》くだろう。まるでお銭《かね》を涼炉《しちりん》で燃しているようなものサ。土竈《どがま》だって堅炭《かたずみ》だって悉《みん》な去年の倍と言っても可い位だからね」とお徳は嘆息《ためいき》まじりに「真実《ほんと》にやりきれや仕ない」
「それに御宅は御人数《ごにんず》も多いんだから入用《いる》ことも入用サね。私《あたし》のとこなんか二人きりだから幾干《いくら》も入用《いりゃ》ア仕ない。それでも三銭五銭と計量炭《はかりずみ》を毎日のように買うんだからね、全くやりきれや仕ない」
「全く骨だね」とお徳は優しく言った。
以上炭の噂《うわさ》まで来ると二人は最初の木戸の事は最早《もう》口に出さないで何時《いつ》しか元のお徳お源に立還《たちかえ》りぺちゃくちゃ[#「ぺちゃくちゃ」に傍点]と仲善く喋舌《しゃべ》り合っていたところは埒《らち》も無い。
十一月の末だから日は短い盛《さかり》で、主人真蔵が会社から帰ったのは最早暮れがかりであった。木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、暫時《しばらく》は木戸を見てただ微笑していたが、お徳が傍《そば》から
「旦那様《だんなさま》大変な木戸で、御座いましょう」と言ったので
「これは植木屋さんが作《こし》らえたのか」
「そうで御座います」
「随分妙な木戸だが、しかし植木屋さんにしちゃア良く出来てる」と手を掛けて揺振《ゆすぶ》ってみて
「案外丈夫そうだ。まアこれでも可《い》い、無いよりか増《まし》だろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で作《こしら》えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内《うち》へ入った。
お源はこれを自分の宅《うち》で聞いていて、くすくすと独《ひとり》で笑いながら、「真実《ほんと》に能《よ》く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったらめったに[#「めったに」に傍点]有りや仕ない。彼家《あそこ》じゃ奥様《おくさん》も好い方《かた》だし御隠居様も小まめ[#「まめ」に傍点]にちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]なさるが人柄《ひと》は極く好い方だし、お清|様《さん》は出戻りだけに何処《どこ》か執拗《ひねく》れてるが、然し気質《きだて》は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想《おもいだ》して「水の世話にさえならなきゃ如彼《あんな》奴に口なんか利《き》かしや仕ないんだけど、房州の田舎者奴《いなかものめ》が、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの図々《ずうずう》しい案梅《あんばい》は」とお徳の先刻《さっき》の言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが合憎《あいにく》と旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。愚態《ざま》ア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。容色《きりょう》も悪くはなし年だって私と同《おんな》じなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く普通《なみ》の女《もの》にゃ真似《まね》が出来ないよ。それに恐しい正直者《しょうじきもん》だから大庭|様《さん》でも彼女《あれ》に任かして置きゃ間違《まちがえ》はないサ……」
こんな事を思いながらお源は洋燈《ランプ》を点火《つけ》て、火鉢《ひばち》に炭を注ごうとして炭が一片《ひときれ》もないのに気が着き、舌鼓《したうち》をして古ぼけた薬鑵《やかん》に手を触《さわ》ってみたが湯は冷《さ》めていないので安心して「お湯の熱い中《うち》に早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉《こっぱ》を拾って来ても間に合うが、明日《あした》食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代《かわり》に力のない嘆息《ためいき》を洩《もら》した。頭髪《かみ》を乱して、血《ち》の色《け》のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分|憐《あわれ》な様であった。
其所《そこ》へのっそり[#「のっそり」に傍点]帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は単直《いきなり》前借の金のことを訊《き》いた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を査《あらた》めて
「たった二円」
「ああ」
「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」
「だって貸さなきゃ仕方がない」
「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は空虚《からっぽ》の炭籠《すみとり》を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干《いくら》も残りや仕ない。……」
磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管《きせる》をポンと強く打《はた》いて、膳《ぜん》を引寄せ手盛《てもり》で飯を食い初めた。ただ白湯《さゆ》を打《ぶっ》かけてザクザク流し込むのだが、それが如何《いか》にも美味《うま》そうであった。
お源は亭主のこの所為《しょさ》に気を呑《のま》れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ止《や》めそうもないので呆《あき》れもし、可笑《おかし》くもなり
「お前さんそんなにお腹《なか》が空《す》いたの」
磯は更に一椀《いっぱい》盛《つ》けながら「俺《おれ》は今日|半食《おやつ》を食わないのだ」
「どうして」
「今日|彼時《あれ》から往《い》ったら親方が厭《いや》な顔をしてこの多忙《いそが》しい中を何で遅く来ると小言《こごと》を言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は手前《てめえ》の勝手だって言やアがる、糞忌々《くそいまいま》しいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお茶飯《やつ》が出たが、俺は見向《みむき》も仕ないんだ。お女中が来て今日はお美味《いし》い海苔巻《のりまき》だから早やく来て食べろと言ったが当頭《とうとう》俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く厭《いや》だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も手前《てめえ》の図々しいのには敵《かな》わんよ、そらこれで可《よ》かろうって二円出して与《よ》こしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹の空《す》いた訳と二円|外《ほか》前借が出来なかった理由《わけ》を一遍に話して了《しま》った。そして話し了《おわ》ったころ漸《やっ》と箸《はし》を置いた。
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