いながら屋内《うち》へ入った。
 お源はこれを自分の宅《うち》で聞いていて、くすくすと独《ひとり》で笑いながら、「真実《ほんと》に能《よ》く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったらめったに[#「めったに」に傍点]有りや仕ない。彼家《あそこ》じゃ奥様《おくさん》も好い方《かた》だし御隠居様も小まめ[#「まめ」に傍点]にちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]なさるが人柄《ひと》は極く好い方だし、お清|様《さん》は出戻りだけに何処《どこ》か執拗《ひねく》れてるが、然し気質《きだて》は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想《おもいだ》して「水の世話にさえならなきゃ如彼《あんな》奴に口なんか利《き》かしや仕ないんだけど、房州の田舎者奴《いなかものめ》が、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの図々《ずうずう》しい案梅《あんばい》は」とお徳の先刻《さっき》の言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが合憎《あいにく》と旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。愚態《ざま》ア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。容色《きりょう》も悪くはなし年だって私と同《おんな》じなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く普通《なみ》の女《もの》にゃ真似《まね》が出来ないよ。それに恐しい正直者《しょうじきもん》だから大庭|様《さん》でも彼女《あれ》に任かして置きゃ間違《まちがえ》はないサ……」
 こんな事を思いながらお源は洋燈《ランプ》を点火《つけ》て、火鉢《ひばち》に炭を注ごうとして炭が一片《ひときれ》もないのに気が着き、舌鼓《したうち》をして古ぼけた薬鑵《やかん》に手を触《さわ》ってみたが湯は冷《さ》めていないので安心して「お湯の熱い中《うち》に早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉《こっぱ》を拾って来ても間に合うが、明日《あした》食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代《かわり》に力のない嘆息《ためいき》を洩《もら》した。頭髪《かみ》を乱して、血《ち》の色《け》のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分|憐《あわれ》な様であった。
 其所《そこ》へのっそり[#「のっそり」に傍
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