やうとした。
『帰つたつて可《い》いじやアないか。乃公《おれ》は出るから』と言ひ放つて、何か思ひ着いたと見え、急速《いそ》いで二階に上《あが》つた。
 火鉢には桜炭《さくらずみ》が埋《い》かつて、小さな鉄瓶《てつびん》からは湯気を吐いて居る。空気|洋燈《らんぷ》が煌々《くわう/\》と燿《かゞや》いて書棚の角々《かど/\》や、金文字入りの書《ほん》や、置時計や、水彩画の金縁《きんぶち》や、籐《とう》のソハに敷《しい》てある白狐《びやくこ》の銀毛《ぎんまう》などに反射して部屋は綺麗《きれい》で陽気である、銀之助はこれが好《すき》である。しかし今夜は此等《これら》の光景も彼を誘引《いういん》する力が少しもない。机の上に置いてある彼が不在中に来た封書や葉書《はがき》を手早く調べた。其中《そのうち》に一通|差出人《さしだしにん》の姓名の書いてない封書があつた。不審に思つて先《ま》づ封を切つて見ると驚くまいことか彼が今の妻と結婚しない以前に関係のあつた静《しづ》といふ女からの手紙である。
 銀之助は静《しづ》と結婚する積《つも》りであつたけれど教育が無いとか身分が卑《いや》しいとかいふ非難が親族や
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