日《きのふ》のやうだけれど。』
二人《ふたり》の言葉は一寸《ちよつ》と途断《とぎ》れた。そして何所《どこ》へともなく目的《あてど》なく歩《あるい》て居るのである。
『今のこれとは何時《いつ》からです。』と銀之助は又《ま》た親指を出した。
『これはお止《よ》しなさいよ、変ですから。一昨年《をととし》の冬からです。』
『それまでは。』
『貴様《あなた》と不可《いけ》なくなつてから唯《た》だ家《うち》に居ました。』
『たゞ。』
『そうよ。』と言つて『おゝ薄ら寒い』と静《しづ》は銀之助に寄り添《そつ》た。銀之助は思はず左の手を静《しづ》の肩に掛けかけたが止《よ》した。
『僕も酔《よひ》が醒《さ》めかゝつて寒くなつて来た。静《しづ》ちやんさへ差《さし》つかへ無けれア彼《あ》の角《かど》の西洋料理へ上がつてゆつくり話しませう。』
 静《しづ》は一寸《ちよつと》考《かんが》へて居たが
『最早《もう》遅いでせう。』
『ナアに未《ま》だ。』
 静《しづ》は又《また》一寸《ちよつと》考へて
『貴郎《あなた》私《わたし》のお願《ねがひ》を叶《かな》へて下すつて。』と言はれて気が着《つ》き、銀之助は停止《たちど》まつた。
『実は僕《ぼく》今夜は五円札一枚しか持《もつ》て居ないのだ。これは僕の小使銭《こづかひせん》の余りだから可《い》いやうなものゝ若《も》しか二十円と纏《まとま》ると、鍵《かぎ》の番人をして居る妻君《さいくん》の手からは兎《と》ても取れつこない。どうかして僕が他《よそ》から工面《くめん》しなければならないのは貴女《あなた》にも解《わか》るでせう。だから今夜はこれだけお持《もち》なさい。余《あと》は二三日|中《うち》に如何《どう》にか為《し》ますから。』と紙入《かみいれ》から札《さつ》を出《だし》て静《しづ》に渡した。
『ほんとに私《わたし》は、こんなことが貴郎《あなた》に言はれた義理ぢアないんですけれど、手紙で申し上げたやうな訳《わけ》で……』
『最早《もう》可《い》いよ、僕には解《わか》つてるから。』
『だつて全く貴様《あなた》にお願ひして見る外《ほか》方法が尽《つき》ちやつたのですよ……。』
『最早《もう》解《わか》つてますよ。それで余《あと》の分《ぶん》は何《いづ》れ二三日|中《うち》に持《もつ》て来ます。』

 銀之助は静《しづ》に分《わか》れて最早《もう》歩くのが慊
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング