とが出來ないのである。
 帆前船の暗い影の下を潜り、徳二郎は舟を薄暗い石段の下《もと》に着けた。
「お上りなさい」と徳は僕を促した。堤の下で「お乘《のり》なさい」と言つたぎり彼は舟中僕に一語を交へなかつたから、僕は何の爲めに徳二郎が此處に自分を伴ふたのか少しも解らない、然し言ふまゝに舟を出た。
 纜《もやひ》を繋《つな》ぐや徳二郎も續いて石段に上《あが》り、先に立つてずん/\登つて行く、其後《そのあと》から僕も無言で從《つい》て登つた。石段は其幅半間より狹く、兩方は高い壁である。石段を登りつめると或家の中庭らしい處へ出た。四方板塀で圍まれ隅に用水桶が置いてある、板塀の一方は見越《みこし》に夏蜜柑の木らしく暗く繁つたのが其|頂《いたゞき》を出して居る、月の光はくつきりと地に印して寂《せき》とし人の氣勢《けはひ》もない。徳二郎は一寸立ち止まつて聽耳を立てたやうであつたが、つか/\と右なる方の板塀に近《ちかづ》いて向へ押すと此處は潜内《くゞり》になつて居て黒い戸が音もなく開いた。見ると戸に直ぐ接して梯子段《はしごだん》がある。戸が開くと同時に足音靜に梯子段を下りて來て、
「徳さんかえ?」と顏
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング