面は鏡のやう。徳二郎は堤を下り、橋の下に繋《つな》いである小舟の纜《もやひ》を解いて、ひらりと乘ると今まで靜まりかへつて居た水面が俄《にはか》に波紋を起す。徳二郎は
「坊樣早く早く!」と僕を促しながら櫓《ろ》を立てた。
僕の飛び乘るが早いか、小舟は入江の方へと下りはじめた。
入江に近《ちかづ》くにつれて川幅次第に廣く、月は川面に其清光を涵《ひた》し、左右の堤は次第に遠ざかり、顧《かへりみ》れば川上は既に靄にかくれて、舟は何時しか入江に入つて居るのである。
廣々した湖のやうな此入江を横ぎる舟は僕等の小舟ばかり。徳二郎は平時《いつも》の朗《ほがら》かな聲に引きかへ此夜は小聲で唄ひながら靜かに櫓を漕いで居る。潮の退《おち》た時は沼とも思はるゝ入江が高潮《たかしほ》と月の光とでまるで樣子が變り、僕には平時《いつも》見慣れた泥臭い入江のやうな氣がしなかつた。南は山影暗く倒《さかしま》に映り北と東の平野は月光蒼茫として何《いづ》れか陸、何れか水のけじめ[#「けじめ」に傍点]さへつかず、小舟は西の方を指して進むのである。
西は入江の口、水狹くして深く、陸迫りて高く、此處を港に錨《いかり》を下
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