《ま》た唄ひながら働くといふ至極元氣の可《よ》い男であつた。常《いつ》も樂しさうに見えるばかりか、心事《こゝろばせ》も至て正しいので孤兒には珍しいと叔父をはじめ土地の者皆に、感心せられて居たのである。
「然し叔父さんにも叔母さんにも内證《ないしよ》ですよ」と言つて、徳二郎は唄ひながら裏山に登つてしまつた。
 頃は夏の最中《もなか》、月影|鮮《さ》やかなる夜であつた。僕は徳二郎の後《あと》について田甫《たんぼ》に出で、稻の香高き畔路《あぜみち》を走つて川の堤《つゝみ》に出た。堤は一段高く、此處に上れば廣々とした野面《のづら》一面を見渡されるのである。未だ宵ながら月は高く澄んで冴《さ》えた光を野にも山にも漲ぎらし、野末には靄《もや》かゝりて夢の如く、林は煙をこめて浮ぶが如く、背の低い川楊《かはやなぎ》の葉末に置く露は珠のやうに輝いて居る。小川の末は間もなく入江、汐に滿ちふくらんで居る。船板をつぎ合はして懸けた橋の急に低くなつたやうに見ゆるのは水面の高くなつたので、川楊は半ば水に沈んで居る。
 堤の上はそよ吹く風あれど、川面《かはづら》は漣《さゞなみ》だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の
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