弟にですよ、坊樣を弟に似て居るなどともつたい[#「もつたい」に傍点]ない事だけれど、そら、これを御覽なさい。」と女は帶の間から一枚の寫眞を出して僕に見せた。
「坊樣、此姉樣が其寫眞を徳に見せましたから、これは宅《うち》の坊樣と少しも變らんと言ひましたら是非連れて來て呉れと頼みますから今夜坊樣を連れて來たのだから、澤山御馳走を爲《し》て貰はんと可《い》けませんぞ。」と徳二郎は言ひつゝも止め度なく飮んで居る。女は僕に摺寄《すりよ》つて、
「サア何でも御馳走しますとも、坊樣何が可《よ》う御座いますか」と女は優しく言つて莞爾《につこり》笑つた。
「何にもいらない」と僕は言つて横を向いた。
「それじや舟へ乘りましよう、私と舟へ乘りましよう、え、さう爲ましよう。」と言つて先に立つて出て行くから僕も言ふまゝに女の後に從いて梯子段を下りた、徳二郎は唯《た》だ笑つて見て居るばかり。
 先の石段を下りるや若き女は先《まづ》僕を乘らして後、纜《もやひ》を解いてひらりと[#「ひらりと」に傍点]飛び乘り、さも輕々と櫓を操《あやつ》りだした。少年《こども》ながらも僕は此女の擧動《ふるまひ》に驚いた。
 岸を離れて見上げると徳二郎は欄《てすり》に倚《よ》つて見下ろして居た。そして内よりは燈《あかり》が射し、外よりは月の光を受けて彼の姿が明白《はつきり》と見える。
「氣をつけないと危難《あぶな》いぞ!」と、徳二郎は上から言つた。
「大丈夫!」と女は下から答へて「直ぐ歸るから待《まつ》て居てお呉れ。」
 舟は暫時《しばら》く大船小船六七|艘《さう》の間を縫ふて進んで居たが間もなく廣々とした沖合に出た。月は益々冴えて秋の夜かと思はれるばかり、女は漕手《こぐて》を止《とゞ》めて僕の傍に坐つた。そして月を仰ぎ又|四邊《あたり》を見廻はしながら、
「坊樣、あなたはお何歳《いくつ》?」と訊ねた。
「十二。」
「私の弟の寫眞も十二の時ですよ、今は十六……、さうだ十六だけれど十二の時に別れたぎり會はないのだから今でも坊樣と同じやうな氣がするのですよ。」と言つて僕の顏を熟《ぢつ》と見て居たが忽ち涙ぐんだ。月の光を受けて其顏は猶更《なほさら》蒼《あを》ざめて見えた。
「死んだの?」
「否《いゝえ》、死んだのなら却て斷念《あきらめ》がつきますが別れた限《ぎり》、如何なつたのか行方《いきがた》が知れないのですよ。兩親《ふたおや》に早く死別れて唯《た》つた二人の姉弟《きやうだい》ですから互に力にして居たのが今では別れ/\になつて生死《いきしに》さへ分らんやうになりました。それに私も近い中朝鮮に伴《つ》れて行かれるのだから最早《もう》此世で會うことが出來るか出來ないか分りません。」と言つて涙が頬をつたうて流れるのを拭きもしないで僕の顏を見たまゝすゝり泣きに泣いた。
 僕は陸の方を見ながら默つて此話を聞いて居た。家々の燈火《ともしび》は水に映つてきら/\と搖曳《ゆら》いで居る。櫓の音をゆるやかに軋《きし》らせながら大船の傳馬《てんま》を漕《こい》で行く男は澄んだ聲で船歌を流す。僕は此時、少年心《こどもごゝろ》にも言ひ知れぬ悲哀《かなしみ》を感じた。
 忽ち小舟を飛ばして近いて來た者がある、徳二郎であつた。
「酒を持つて來た!」と徳は大聲で二三間先から言つた。
「嬉しいのねえ、今坊樣に弟のことを話して泣いて居たの」と女の言ふ中《うち》徳二郎の小舟は傍に來た。
「ハツハツヽヽヽ大概《おほかた》そんなことだらうと酒を持て來たのだ、飮みな/\私《わし》が歌つてやる!」と徳二郎は既に醉つて居るらしい。女は徳二郎の渡した大コツプに、滿々《なみ/\》と酒をついで呼吸《いき》もつかずに飮んだ。
「も一ツ」と今度は徳二郎が注《つい》でやつたのを女は又もや一呼吸《ひといき》に飮み干して月に向《むかつ》て酒氣を吻《ほつ》と吐いた。
「サアそれで可《よ》い、これから私《わし》が歌つて聞かせる。」
「イヽエ徳さん、私は思切つて泣きたい、此處なら誰も見て居ないし聞えもしないから泣かして下さいな、思ひ切つて泣かして下さいな。」
「ハツハツヽヽヽヽそんなら泣きナ、坊樣と二人で聞くから」と徳二郎は僕を見て笑つた。
 女は突伏《つゝぷ》して大泣に泣いた。さすがに聲は立て得ないから背を波打たして苦しさうであつた。徳二郎は急に眞面目な顏をしてこの有樣を見て居たが、忽ち顏を背向《そむ》け山の方を見て默つて居る、僕は暫《しばら》くして
「徳、最早《もう》歸らう」と言ふや女は急に頭を上げて
「御免なさいよ、眞實《ほんと》に坊樣は私の泣くのを見て居てもつまりません。……私坊樣が來て下さつたので弟に會つたやうな氣が致しました。坊樣も御達者で早く大きくなつて豪《えら》い方になるのですよ」とおろ/\聲で言つて「徳さん眞實《ほんと》に餘り遲く
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