なるとお宅《うち》に惡いから早く坊樣を連れてお歸りよ、私は今泣いたので昨日《きのふ》からくさ/\して居た胸がすい[#「すい」に傍点]たやうだ。」
* * *
女は僕等の舟を送つて三四町も來たが、徳二郎に叱られて漕手《こぐて》を止めた、其中に二艘の小舟はだん/\遠ざかつた。舟の別れんとする時、女は僕に向て何時までも
「私の事を忘れんで居て下さいましナ」と繰返して言つた。
其後十七年の今日まで僕は此夜の光景を明白《はつきり》と憶《おぼ》えて居て忘れやうとしても忘るゝことが出來ないのである。今も尚ほ憐れな女の顏が眼のさきにちらつく。そして其夜、淡《うす》い霞のやうに僕の心を包んだ一片の哀情《かなしみ》は年と共に濃くなつて、今はたゞ其時の僕の心持を思ひ起してさへ堪え難い、深い、靜かな、やる瀬のない悲哀《かなしみ》を覺えるのである。
其後徳二郎は僕の叔父の世話で立派な百姓になり今では二人の兒の父親になつて居る。
流《ながれ》の女は朝鮮に流れ渡つて後、更に何處《いづこ》の涯《はて》に漂泊して其|果敢《はか》ない生涯を送つて居るやら、それとも既に此世を辭して寧《むし》ろ靜肅なる死の國に赴《おもむ》いたことやら、僕は無論知らないし徳二郎も知らんらしい。
[#地から1字上げ](明治三十五年)
底本:「日本文學全集4 國木田獨歩」新潮社
1964(昭和39)年4月20日発行
入力:網迫
校正:丹羽倫子
1999年2月12日公開
2004年5月26日修正
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