少年の悲哀
國木田獨歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)少年《こども》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)月影|鮮《さ》やかなる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)水のけじめ[#「けじめ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あり/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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少年《こども》の歡喜《よろこび》が詩であるならば、少年の悲哀《かなしみ》も亦《ま》た詩である。自然の心に宿る歡喜にして若《も》し歌ふべくんば、自然の心にさゝやく悲哀も亦《ま》た歌ふべきであらう。
兎《と》も角《かく》、僕は僕の少年の時の悲哀の一ツを語つて見やうと思ふのである。(と一人の男が話しだした。)
* * *
僕は八歳《やつつ》の時から十五の時まで叔父の家《うち》で生育《そだつ》たので、其頃、僕の父母は東京に居られたのである。
叔父の家は其土地の豪家で、山林田畑を澤山持つて、家に使ふ男女も常に七八人居たのである。
僕は僕の少年の時代を田舍で過ごさして呉れた父母の好意を感謝せざるを得ない、若し僕が八歳の時父母と共に東京に出て居たならば、僕の今日は餘程違つて居ただらうと思ふ。少くとも僕の智慧は今よりも進んで居た代りに僕の心はヲーズヲース一卷より高遠にして清新なる詩想を受用し得ることが出來なかつただらうと信ずる。
僕は野山を駈け暮らして、我幸福なる七年を送つた。叔父の家は丘の麓《ふもと》に在り、近郊には樹林多く、川あり泉あり池あり、そして程遠からぬ處に瀬戸内《せとうち》々海の入江がある。山にも野にも林にも溪《たに》にも海にも川にも僕は不自由を爲《し》なかつたのである。
處が十二の時と記憶する、徳二郎といふ下男が或日僕に今夜面白い處に伴《つ》れてゆくが行かぬかと誘さうた。
「何處《どこ》だ」と僕は訊ねた。
「何處だと聞《きか》つしやるな。何處でも可《え》えじや御座んせんか、徳の伴れてゆく處に面白うない處はない」と徳二郎は微笑を帶びて言つた。
此徳二郎といふ男は其頃二十五歳位、屈強な若者で、叔父の家には十一二の年から使はれて居る孤兒《みなしご》である。色の淺黒い、輪廓の正しい立派な男、酒を飮めば必ず歌ふ、飮《のま》ざるも亦《ま》た唄ひながら働くといふ至極元氣の可《よ》い男であつた。常《いつ》も樂しさうに見えるばかりか、心事《こゝろばせ》も至て正しいので孤兒には珍しいと叔父をはじめ土地の者皆に、感心せられて居たのである。
「然し叔父さんにも叔母さんにも内證《ないしよ》ですよ」と言つて、徳二郎は唄ひながら裏山に登つてしまつた。
頃は夏の最中《もなか》、月影|鮮《さ》やかなる夜であつた。僕は徳二郎の後《あと》について田甫《たんぼ》に出で、稻の香高き畔路《あぜみち》を走つて川の堤《つゝみ》に出た。堤は一段高く、此處に上れば廣々とした野面《のづら》一面を見渡されるのである。未だ宵ながら月は高く澄んで冴《さ》えた光を野にも山にも漲ぎらし、野末には靄《もや》かゝりて夢の如く、林は煙をこめて浮ぶが如く、背の低い川楊《かはやなぎ》の葉末に置く露は珠のやうに輝いて居る。小川の末は間もなく入江、汐に滿ちふくらんで居る。船板をつぎ合はして懸けた橋の急に低くなつたやうに見ゆるのは水面の高くなつたので、川楊は半ば水に沈んで居る。
堤の上はそよ吹く風あれど、川面《かはづら》は漣《さゞなみ》だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の面は鏡のやう。徳二郎は堤を下り、橋の下に繋《つな》いである小舟の纜《もやひ》を解いて、ひらりと乘ると今まで靜まりかへつて居た水面が俄《にはか》に波紋を起す。徳二郎は
「坊樣早く早く!」と僕を促しながら櫓《ろ》を立てた。
僕の飛び乘るが早いか、小舟は入江の方へと下りはじめた。
入江に近《ちかづ》くにつれて川幅次第に廣く、月は川面に其清光を涵《ひた》し、左右の堤は次第に遠ざかり、顧《かへりみ》れば川上は既に靄にかくれて、舟は何時しか入江に入つて居るのである。
廣々した湖のやうな此入江を横ぎる舟は僕等の小舟ばかり。徳二郎は平時《いつも》の朗《ほがら》かな聲に引きかへ此夜は小聲で唄ひながら靜かに櫓を漕いで居る。潮の退《おち》た時は沼とも思はるゝ入江が高潮《たかしほ》と月の光とでまるで樣子が變り、僕には平時《いつも》見慣れた泥臭い入江のやうな氣がしなかつた。南は山影暗く倒《さかしま》に映り北と東の平野は月光蒼茫として何《いづ》れか陸、何れか水のけじめ[#「けじめ」に傍点]さへつかず、小舟は西の方を指して進むのである。
西は入江の口、水狹くして深く、陸迫りて高く、此處を港に錨《いかり》を下
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